私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

巨大な問いかけとしての『風の谷のナウシカ』

【『風の谷のナウシカ』に対する違和感】

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自分の書いたブログの過去ログを読み返して、初めて『風の谷のナウシカ』を見てからしばらくのあいだ、私はこの作品とナウシカというキャラクターに、何とも言えない反発のようなものを感じていたことを思い出した。

これは多分、宮崎駿という個性の持つ一番核になる「毒」というか、強烈な信念のようなものに対する反発だったのだと思う。それに対する戸惑いというか、理解できないものを拒否する強い生理的反応が働いていた。

近未来の核の冬によって滅び去ったこの世界にあって、あれだけの強烈な意志を持った存在が「いる」ということ自体があり得ない。いや、たとえばトルメキアの王女クシャナも、同じような強い意志を持っている。しかし彼女の意志はある意味歪んだものであり、それは滅び去ったこの世界に大変ふさわしいものに感じる。

そう、ナウシカに対する違和感はこの歪んだ世界においてこれだけまっすぐな意志が屹立し得るはずがないという違和感だったのだ。そのように考えてみると、その感覚の正体がわかる。


【歪んだ世界の中で、まっすぐに、あるいは力を尽くして生きること】

どんなに歪んだ世界でも、どんなにまっすぐな世界でも、人は生きている。そして自分の生きている世界だけが唯一の世界だ。私たちは私たちの住んでいるこの世界を、歪んだ世界だと感じるかいくらかましな世界だと感じるか、それはそれぞれだと思うけれども、それならばいま私たちが生きている世界が歪んでいるのなら、私たちが住んでいる世界にまっすぐな意志は存在しえないかと言えば、それはやはりそんなことはないと思うだろう。そう、世界の歪みと、人の意志のまっすぐさは、絶対に相関するわけではないのだ。

逆にいえば、世界が歪んでいるから人も歪んでいるのが普通のあり方だ、という考えは正しいかと言えば、そうかもしれないけどやはりそうであってほしくない、とも思うだろう。歪んだ世界であるから人の心も歪んでいる、というアニメを作る意味があるか、と言えば、宮崎ならそんな作品を作る意味はない、と断言するだろう。

私はそういう作品に慣れ過ぎていたんだな、と今考えてみると思う。世界が枯れてきたから、人の心も枯れてきた。世界が初々しく若々しいから、人の心も若々しい。そういう発想からすれば、歪んだ世界においてまっすぐな心が存在するということはあり得ないことだ、ということになるし、もし存在したとしても、それは「奇跡」であって普通ではない、ということになってしまう。そうであってはいけない、というのが宮崎のメッセージであり、それが託されたのがナウシカという存在なのだろう。

それは結局、宮崎の「最後」の作品である『風立ちぬ』まで受け継がれている。どんな状況の中でも、力を尽くして生きよ。映画版のナウシカの華々しい活躍と彼女がもたらした成果に比べれば、二郎の地道な努力も、無残な結果も、まるで無意味なことに見える。

しかし大事なことはそこにはない。そうではなく、力を尽くして生きること、そのものの中に人がひとであることがあるのだと、最終的に宮崎はそこに至ったのだろうと思う。


【ナウシカの持つ強い意志と暗い情念】

映画版のナウシカの最後の場面はある種の宗教性を帯びているが、それはナウシカが活躍し過ぎたことによるある種の混乱とも言えるし、非武装の平和主義とか社会主義の理想がまだ信じられた時代のある種の澱のようなものだということもできる。

残虐な行為を、空中で両手を広げ、身を持って止めようとする強い意志を持った少女。

それが現実に存在し得るという考えは、ある種の社会主義リアリズムではないだろうか。あるいはアニメにおける最後の英雄時代だと言ってもいい。(そう考えてみると、『魔法少女まどか☆マギカ』のまどかという存在は、何重にも骨折しているがナウシカの正統的な子孫だと言えるかもしれない)

しかし一方で、ナウシカはそういう理想化された部分だけを持つ存在ではない。彼女を突き動かしているのは、ある種の暗い情念のようなものだ。ある種おたく的、マニアックなその世界の生命すべてに対する強い執着。それを守れなかったことへの強い後悔。それを力に変えて、ナウシカは空を飛ぶ。

その暗い情念を受け継いだのが、『もののけ姫』のサンだろう。しかし彼女は、ナウシカが生きとし生けるものすべてに持っていた愛、あるいは執着のうち、人間に対するそういうものだけを失っている。そこには宮崎の、人間に対する絶望の深まりが反映されているのだろう。

しかし、ナウシカにそれはない。ナウシカは人(が生きるべきものであること)を信じ、またほかの生き物たちも生きるべきであることを信じ、そして破滅し、そして復活する。そのあまりのストレートさ。ナウシカはそのような形で今も、私たちにメッセージを発し続けている。


【巨大な問いかけとしての『風の谷のナウシカ』】

私たちは何を信じ、何を行うべきなのか。いまこうして書いていても、分析しきれない何かがそこにあるのを感じる。そういう意味では、ナウシカはいまだに巨大な問いかけなのだ。

まだまだナウシカは語りつくされていない。『風の谷のナウシカ』の旅はまだ、始まったばかりなのだろう。