私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

『かぐや姫の物語』は、一言で言えば、「どこまでも味わい尽くしたくなる映画」だった(その2)

いのちの記憶 (かぐや姫の物語・主題歌)

(その1)からの続きです。


この映画がどういう映画であったか、というのを説明するのは難しい。つまり、こういう映画だったと説明しにくい映画なのだ、という言う意味で、味わい尽くしたくなる映画だ、というのが最もぴったりくる感じがする。

 

もちろん、ただ訳が分からない映画だったらそうは思わないわけで、ものすごく魅力的な画面が溢れているのに、その全体が把握しきれないから、一言では言えないということで、だからこそもっとこの映画がなんであったのかを知りたい、という気持ちに駆られるということで、昨日からずっと『Switch』の特集を読んだり、パンフレットを読んだり、ウェブ上の感想を読んだりしていた。

 

絵は、とにかくすごい。動画も、これが動画だったらほかの映画は何なのかというくらい。『進撃の巨人』アニメもつぎ込まれている巨大な情熱や質量は他に類を見ないものであるのだが、まあ映画とテレビアニメという性格も、若い人たちがつくるアニメと「巨匠」が限界を超えた製作費をつぎ込んで作っている映画という背景も全然違うので全然同列で語れるようなものではないのだが、この異様な何もかもやりきった感というか、画面を追っていてなんだか呆れてくる。

 

プロデューサー見習の川上量生さんが、ジブリではアニメとはなんだと考えられているか、という問いに答えて「絵が動くこと」と答えている。これはなんというか当たり前のようでいてものすごく深い、というかつまり「絵」の「動かし方」こそがアニメの「表現」なのだということだ。ストーリーももちろん大事にはされているが、もっと大事なのは絵が動くということそのもの。どういう絵を描くのか、どのように動かすのか、それが徹底的に考えられ、試され、その繰り返しの中で生まれてきたものだから、この映画の完成に8年かかった。(『風立ちぬ』と同時公開という縛りがなかったらもっと遅れたという。同時公開には結局間に合わなかったが)

 

だから私も、とにかくどういう絵が描かれているか、そしてそれがどのように動かされているのか、というところにテーマを置いてみていた。そして、その達成度の大きさに、目を見張らざるを得なかった。

 

最初はあのラフなタッチ(あれは筆で書かれていると思ったが、実は鉛筆の線なのだそうだ。小さな画用紙に書かれた鉛筆の線を映画の画面にまで拡大すると、筆で書かれたように見えるらしい(『Switch』のインタビューでかぐや姫の声をやった朝倉あきが高畑監督に聞いた話として話していた)が存分に動いていて、あのひょっという感じの少女が悪童たちにはやされて着物を脱いで裸で川に飛び込んだりする場面が、小島功の黄桜の河童のコマーシャル(動画が出ます)を思い出させたが、いま黄桜の動画を見直すとやはりなんだか通じるところがある。もちろん動画の精度は全然違うけど。

 

あの、木地師の子どもたちと遊んだり走り回ったり川に飛び込んだり畑の売りを盗んで食べたりする描写は、見終ったいま思えば作品のテーマである「いのちの輝き」を最もあらわしている場面だ。

 

ものすごく今思うとじんとするのだけど、なんというか、この映画はものすごく言いたいことが理路整然と疑問の余地なく配置されている映画で、そういう意味でなんかそこまで理詰めで作っていいんかな、という感じが見終った後もすごく残った。ただ逆に、ものすごく理詰めであるから不必要な場面が一切ない、というものすごく緊密な構成になっている。わからないという印象があるのは理詰めでないからではなく、たぶんあまりに理詰めすぎるということもあるのだろうけど、わざと省略されている、書かれていない部分があるからで、関連資料をあたっていると、そうかそこはそういう設定だったのかというのが割とすぐわかって、空白が寸分の隙もなく埋められていき、息苦しいくらいになる。

 

この場面について、裸の女の子が水に飛び込んだり、授乳の場面で乳房が描かれていることを、国際基準に照らして問題だと言っているブログがあって、バカじゃないのと思ったが、まあこれは宮崎駿が『風立ちぬ』で何の遠慮もなくたくさんの登場人物がたばこをプカプカふかしているのと同じで、言うべきこと、描写すべきことがあるときにそういう中途半端な政治的配慮はしない、という潔さがいいのだと思うし、また今書いたようにあの場面は生命力が溢れている、いのちが輝いているということの描写のために、日本の昔の子どもたちや母たちの最も自然な状態がそのまま書かれているだけで、逆にそういう価値観を伝えるべきだとすら思う。

 

まあこのことは言い出せばきりがないんであって、一度取り締まる決まりが、非難する口実ができるとこの程度の描写も児童ポルノまがいに言い立てるのはどうかと思う。

 

日本では、子どもが裸で走り回ったり、お母さんが電車の中で授乳したりするのは昭和40年代でさえ珍しくなかった。それを持って野蛮の象徴のようにしたり顔をする人種差別感情もどうかと思うし、それに迎合しようとする植民地的文化人もどうかと思う。一つ目小僧の国で二つ目が差別されても、二つ目が二つ目の文化を譲る必要はないだろう。

 

……なんだかムキになったが、とはいえ日本でも都会から順番にそういうものを隠す方向へ動いていることは事実ではあるので、ある意味無駄な抵抗かもしれないが、まあだからこそそういう子どもがはしゃいでる裸な姿にいのちの輝きを見せようとする意図が意味あるものに見えるのかもしれない。

(その3)へ続きます。