私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

『かぐや姫の物語』は、一言で言えば、「どこまでも味わい尽くしたくなる映画」だった(その4)

ジブリと私とかぐや姫

(その3)からの続きです。

 

かぐや姫は幻想か現実か定かでない中で懐かしい場所を訪ね、そこにはもう誰もおらず、二度と木地師の子どもたち、(なかでも慕っていた捨丸)に会えないということを知る。それからかぐや姫はおとなしく周りのいうように「高貴な姫」であるという枠に自分をおしこめていく。

 

そのなかで、眉毛を抜かれるときに一筋の涙が落ちるのが印象的だ。自由と生命の輝きよりも翁の願い、洗練に身を委ねることを選択し、受け入れる。大人の階段を一つ上るときに感じる何かを失ってしまう哀しみ。

 

それを拒むことを社会の側、大人の側、文化の側からは「わがまま」だというのだけど、この悲しみ、痛みを描くことこそがこの映画の一つの眼目であって、それは小さな「死」でもある。一つ一つ大人になっていくということは、一つ一つ死んでいくことでもあるのだ、という見えないテーゼが描かれている。

 

最後にかぐや姫は、地上の「すべてを忘れて」月に帰って行くわけだけど、それはやはり死の隠喩でもあり、『Switch』インタビューで二階堂和美が言うように、「呆け」の隠喩かもしれない。『かぐや姫の物語』が切ないのは、急ぎ足で大人になって、急ぎ足で去っていく、その生の儚さが、生命に満ち溢れた場面がより華やかであるだけに、より胸に迫るからだろう。

 

満開の桜の下ではしゃいでくるくる回る圧倒的な場面のあと、ぶつかってきた子供に姫は現実に引き戻される。それは竹取の翁たちと暮らしていた家にいてぼろぼろの姫に施しをした女の子どもだった。その女が姫に平謝りする姿を見て、姫は却って落ち込んでしまう。食べ物を恵まれたときにはいささかの屈辱も感じていないのに、中身は同じ自分がりっぱな着物を着ているだけで平身低頭される事実に心底落ち込んでしまうのだ。自分がもう、「いのち」の側にいないことを、とことんまで思い知らされて。

 

そして『竹取物語』で一番印象的な、五人の貴公子の求婚とかぐや姫の拒絶、そして貴公子たちの涙ぐましい努力とその失敗の場面。ここがこんなに効果的なかたちで物語構造に組み込まれるというのも予想外だった。

 

五人が出てくる順序は原典とは異なっているが、最初に宝物を捏造した車持の皇子が出て、エピソードは原典と同じくコミカルに展開するかと思ったら、次に出てくる阿部の右大臣は全財産をつぎ込んだ鼠の皮衣が焼けてしまい、龍に挑んだ大伴の大納言は遭難しかけ、純粋さを装って口説こうとした石作の皇子に心を動かされたかぐや姫はその女たらし振りを北の方に暴露されて却って大きなショックを受け、最後に宝物を手に入れようとした石上の中納言は墜落死したことを知って、自分が縁談を断るために言った口実が皆を不幸にしたことを知りさらに大きなショックを受ける。

 

姫は箱庭を破壊して「自分は偽物だ」と嗚咽する。自分のありたかった姿と、今ある自分の大きなギャップ。偽物としか言えない自分の姿に苦しむ。あまりにも純粋でありすぎるけれども、これはつまりは「大人であることの苦さ」だろう。自分は自由に生きたいだけなのに、周りを苦しめ、しまいには死に至らしめてしまう。その戸惑いは、多かれ少なかれ多くの人が感じることがあるのではないか。

 

そして帝の求愛の場面。その思いもかけない登場に思わず姫は月の世界に助けを呼んでしまう。そして、そうした以上は月に帰らなければならないという事実を知る。そして自分がなぜ地上に憧れたのか、という事実も思い出す。

 

パンフレットの「プロダクションノート」に「大空に憧れた少年を通し、どんな時も力を尽くして生きることの大切さを伝えようとした『風立ちぬ』。一方、大地に憧れた少女を通し、辛いことや大変なことがあってもやってみなければならない、自らの”生”を力いっぱい生きることの大切さを伝えようとする『かぐや姫の物語』。「この世は生きるに値する」。もしかしたら二人は同じことを伝えようとしたのかもしれない。」とある。

 

大地への憧れ、生の喜びへの憧憬こそがいわば堕天の罪であった、というのは、ある意味「原罪としての生きること」という解釈も可能かもしれない。しかしそれはキリスト教的な強迫的なものではなく、むしろ「この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ」(大伴旅人)という、現世の生を力強く肯定する思想が表現されているというべきだろう。

 

この物語は、思うように自分の生を生きられないかぐや姫の姿を通して、自分の生を生きることの素晴らしさをより強く訴えかけているのだ。人は誰でも、そのパラドクシカルな事実を生きなければならないということを。

 

(その5)に続きます。