私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

『かぐや姫の物語』は、一言で言えば、「どこまでも味わい尽くしたくなる映画」だった(その5)

ジ・アート・オブ かぐや姫の物語 (ジブリTHE ARTシリーズ)

 

(その4)からの続きです。

 

月への帰還を前に、都を抜け出した姫は田舎の懐かしい道をたどり、そこで思いがけず大人になった捨丸に再会する。姫は捨丸に「あなたと生きることができたら」と言い、その思いを自らも伝えた捨丸と二人で空を飛ぶ場面。ここまでリアルに作られてきた構成が突然『千と千尋の神隠し』の千尋とハクが空を飛ぶ場面になったのには驚いた。見た瞬間にはかなり否定的にとらえたのだけど、これを「ジブリだから」と安易に受け入れても意味がないし、何というかかなり多くのことを緻密に踏まえたうえで作られている映画だから、むしろその意味を考えたほうがいいかもしれない、と思った。

 

月の世界の住人であることを自覚した姫は、帝の前で姿を消したり表したりすることができる超自然的な能力を手に入れている。だから捨丸とのくだりも、それを考えれば不自然ではないかもしれないともいえるが、すでに多くの求婚を断っているかぐや姫は子どもではないのであり、子どもの淡い思いを描いた『千と千尋』とは違う。これはむしろ、「子供向きの映画では描けないこと」、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』にはなかった場面がオリビア・ハッセー主演の映画では描かれていた、ということを思い起こすべきなのかもしれない。インド映画で、カップルがいいムードになると踊りの場面になってしまうような。と歯に衣を着せて書いてみたが、それ以上のことはご想像にお任せだ。

 

ところで、この世のものならぬかぐや姫とこの世のものそのものである捨丸の位置は、この世のものである千尋とこの世のものならぬハクとの位置が入れ替わっている。千と千尋のオリジナル性とかぐや姫の物語の古層性。大人になる前の世界のある種の完成である千と千尋と、大人になってしまう、そしてこの世にいつまでもいられない哀しみを描くかぐや姫。様々な意味でこの場面は千と千尋との対照性を思わずにはいられなかったので、最初はそれを書こうとして、「『かぐや姫の物語』は「『千と千尋』の裏返し」だった」という題にしようと思っていたのだが、書いているうちにそんなキャッチ―なフレーズはどうでもいいような気になってきてしまった。

 

まったく脱線してしまった、元に戻ろう。

 

十五夜の、月の使いが迎えに来る場面は見ていていろいろ混乱した。月の光を浴びると姫がスーッと自動人形のようにひきつけられていってしまうのもなんだか変だと思ったし(理屈で考えれば演出意図は分かるのだが)、迎えに来た仏像みたいな月の王が着ている服もなんだかマツコデラックスみたいだと思った。またあのアジアンな感じの音楽も『平成狸合戦ぽんぽこ』みたいだと思ってすごく違和感があったのだが、「アストラル界の音楽のようだ」という人がいて、なるほどそういうふうに聞くのかと思った。

 

つまり、あの場面は違和感を感じるべきなのだ、と私は思った。

 

天国とか月の世界とか「清浄な世界」は、この地上の汚いかもしれないが「生命に溢れた世界」とは違うのだ、ということ。こちらの高畑監督と音楽担当の久石譲さんとの対談で、あの場面に対して監督は「(阿弥陀来迎図では)打楽器もいっぱい使っているし、天人たちはきっと、悩みのないリズムで愉快に、能天気な音楽を鳴らしながら降りてくるはずだと。最初の発想はサンバでした。」という指定を考えたのだという。悩みがないってなさすぎだろ、という感じだが、それを聞いた久石さんもさすがに衝撃を受けて、「ああ、この映画どこまでいくんだろう」と思ったそうだが、その結果「ケルティック・ハープやアフリカの太鼓、南米の弦楽器チャランゴなどをシンプルなフレーズでどんどん入れる」ということになったのだそうだ。アジアンどころではなかった。

 

清浄な月の世界、天界に、人は単純に憧れるけれども、本当はどうなんだろうか。それに憧れるよりも、この世界を力を尽くして生き、それを味わい尽くすことの方が大事なのではないか。それは宮崎駿風の谷のナウシカ』のマンガ版で示されていたメッセージでもある。宮崎は「清浄な世界」を「抹殺」したが、高畑はそれをただ淡々と描くことでそれをどう判断するかは観客に委ねている。それは二人の監督の個性の違いでもあるけれども、受け取ってもらいたいメッセージは、そういうことなのだろうと思う。

 

(その6)に続きます。