私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

『千と千尋の神隠し』再考:カオナシとは誰のことか――あなたの闇の葬り方

千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]

 

宮崎駿の映画には、初期には「悪役」が出て来るが、トトロ以後ははっきりとした悪役というのは出て来なくなる。だから悪役として明確に意識できるのはナウシカのクロトワとラピュタムスカくらいなものだ。ジブリ映画で好きなキャラクターベスト10みたいな企画をどこかでやっていたが、女子はともかく男子対象でアンケートをとったらムスカがかなり上位に入っていて、これは明らかな悪者だからだろうと思う。男の子は悪者が好きなのだ。悪者というのは精神の異形者であって、異形の者への憧れというのがやはり男の子の中にはあるのだと思う。

 

それはそれとして、たとえば『もののけ姫』では明らかな悪者はいないわけではないけどみな小物だ。問題はそれよりも、暴走する自然をなだめ、すべての崩壊を食い止めること。タタリ神と化したイノシシや首を失って暴れるシシ神たち。しかし、自然が悪であるとか、人間に害をなすものという視点はない。自然は恐ろしいが、人間は自然の一部なのだから、その中で自然に対する畏れを知っていきるしかない、つまり人間には乗り越えられない何かがある、といえばいいか、それはつまり自然と対峙するときに自然と対決するとか自然を超克するとかいう姿勢を取ったときに人間としての破滅がはじまるということで、自然に銃口を向けることは結局自分自身に銃口を向けることになるのだ、ということではないかと思う。「悪」と対峙するのは話の作り方としては一定のルールがあるけれども、そうでないものと対峙する話の作り方の方が、より幅が広く、より難しく、より面白いように思う。

 

千と千尋の神隠し』にも、明確に悪と言える存在は出て来ない。それじゃあ『千と千尋の神隠し』では何を言おうとしているんだろう、どういうふうに話が作られているんだろうと考えてみた。以下、この映画を見ていることを前提としての話になる。

 

まずテーゼを立ててみる。一言でいえば、それは、現代に生きるということは、たぶんある種の地獄というか、異界の中で生きるようなものだということかなと思う。その中で生きていても、精いっぱい自分がしなければならないことを生きることで、人は本来の自分を取り戻して行く。父や母や、愛する人たちのため、という思いもひとまずおいて、「自分のするべきことをしていく」ことで。ということではないか。

 

そう考えてみると、よくわからないけど物語の中心近くにいるカオナシという存在が千尋とコントラストをなすものとして浮かび上がってくる。「自分のするべきことをしている」千尋に対し、「自分のするべきことが見つからないで暴走する」のがカオナシなのではないかと。どこかで読んだのだが、『千と千尋』は構想しているうちにものすごく長大になってしまって、物語の中盤を創りなおしてカオナシを軸としたストーリーに変えたのだという。千尋が懸命に日々の仕事をつとめて行く一方で、カオナシはどんどん不安定さをあらわにし、異形なものになって行く。カオナシは偽物の金を出すことで湯屋のキャラクターたちをひきつけ、彼らを飲みこみ、そして彼らの欲望を自分の欲望として暴走し、何を食べても満たされない。貪欲とは欲望の満たされない状態なのだ。そして本当に求めている千尋には拒絶される。カオナシは絶望して暴走するが、しかしその千尋の拒絶と手助けによってカオナシは救われる。ニガヨモギの団子を食べさせられて他者の欲望を吐き出し、ハクを助けに行く千尋と一緒に電車に乗って銭婆のところに行き、そこに自分の生きる場所とすべきことを見つけるのである。

 

自分の生き方が見つからず、人の欲望を自分の欲望と勘違いして、自分では何もなさず、ただ人に求め、満たされない欲望を嘆く。作中にはそういう人間がほかにもいる。それは、この異界に迷い込む前の千尋自身だ。そう考えてみるとカオナシとは、あの世界に現れる前の千尋の姿なのだ、もちろん明示はされてないけれども。千尋が湯屋の世界に現れ、その存在が、両親を豚にされ、心細い状態でハクの手助けを受けて、それでも一大決心をして両親を救うために名前を奪われそうになりながらも決して忘れることなく(このあたりは『ルーツ』でクンタ・キンテが名を奪われ、トビーという奴隷としての名を押し付けられるくだりを思い出す)、自分の本当にやりたいこと=両親を救いだすこと、そして途中からはハクを救うこと=自分のすべきことをして、状況を乗りこえていく強い意志を持った千=千尋と、自分のすべきことが分からず、他人の欲望を飲みこんで自分の欲望と勘違いし、どんどん醜く太っていく(自我が肥大して行くのに空虚そのものである)カオナシの二つに分裂したと考えればよいのではないだろうか。

 

そして自分のすべきことを理解している千尋は、その空虚な自分を拒絶はするけれどもちゃんと手助けをして、そして彼を地獄や闇の中ではなく銭婆のメルヘンの世界に連れて行き、安住の地を与えて現実の世界に帰っていく。それが「大人になる」ということ、「大人になった」ということなのではないだろうか。

 

もちろん千尋だけでなく誰の中にも、空虚な欲望に振り回される自分というのはいるわけで、その空虚な自分にどう対すればいいのか、宮崎はその一つのヒントを示しているのだと考えてもいいのかもしれない。

 

これは『風の谷のナウシカ』漫画版において、「ナウシカは森の人に案内されて最も闇に近い存在として鋭く対立し続けた土鬼(トルク)の皇弟と一緒に清浄な世界に行くのだが、皇弟はそこで浄化されて帰って来ない」というくだりと、同じことが表現されているのではないだろうか。ナウシカは森の人に「闇から生まれた者は闇に帰すべきでした」と言われるが、ナウシカは「闇は私の中にもあります」という。「この森が私の内なる森なら、あの砂漠もまた私のもの。だとしたらこの者はすでに私の一部です」という。ナウシカと皇弟の関係は、千尋とカオナシの関係と同じなのだ。

 

そしてその空虚な影は、きらめきの中で浄化されなければならない。もともとこのことについて考え始めたのは、あるサイトで「カオナシよりもハクとの恋物語の方を強調すべきだ!」という主張を読んだことが頭の中に残っていたからだ。今までカオナシがどうしてこんなに大きな存在感を持っているのかということをあまり深く考えて来なかったのだけど、確かに一見関係ないように見えるカオナシがどうしてこんなに扱いが大きく、ポスターやコピーでも取り上げられているのか、考えてみれば不思議だ。

 

この物語全体をハクと千尋のラブストーリーだと考える見方は新鮮でへえと思ったが、でもこの話はそんなにシンプルではない。これは千尋とハクの恋物語ではなく、千尋の成長の話だ。だとすると、ストーリーで大きな役割を占めているカオナシが千尋と無関係であるはずがない。だとすれば、カオナシは千尋の影なのだと考えるしかない。

 

カオナシは現実の世界で生きている中で無気力になり始めていた千尋が心の中で飼い始めていた闇なのだ。そしてそれを、闇の中の世界のように見えてそうではなかったあの湯屋の世界に置いて、空虚な自分とさよならして、ある意味浄化され、ある意味大人になって帰って来た。大人になる過程で得たのがハクとの恋の思い出や、救い出した両親への思いなのだ。

 

そう考えてみると、見え方や行動や性格はともかく、千尋は千を経てナウシカになって行ったのだ。いうことになる。そんなふうに『ナウシカ』と『千尋』の重なりを考えてみると、宮崎が書いてきたいくつもの物語、いくつのも膨大なバリエーションとして立ち現れたそれらの物語の彼方に、一つの壮大な、決して語りつくされることのない物語が見えてきて、感動を覚える。宮崎は語りつくされることのない大きく豊かな物語を持っていて、その壮大な物語の中から、時代と子どもたちの状況に合わせて必要な物語を紡ぎだして来ているのだ、と思う。

 

これはおそらく、ゲーテがやっていたことと同じなんだろう。物を書く人間の中には、そういう書き方をする人間はいると思う。自分の持っている、まだ形を現していない大きな物語の中から、いかにして一つ一つの物語を紡ぎだして行くか。決して最後まで語りつくせる物語ではないにしても、それを語る話を一つでも多く書けたら、と私も願う。

 

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(この記事は、2011年5月13日にFeel in my bones に掲載した記事をもとに修正したものです)