私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

宮崎駿はなぜ無敵なのか

風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡

 

宮崎駿のインタビューとか、鈴木敏夫のインタビューを読んで、一晩寝て起きて寝起きの頭に啓示のように降りてきたのが、「言いたいこと、あるいは言わなければならないこと(つまり使命とか理想とか)を言うためにやりたいこと(つまりアニメ作りやそれに伴う世界観の開陳や展開、その表現化)がやれている。だから宮崎駿は無敵なのだ」ということだった。

 

私は寝起きの啓示というものを信じている、というかそれに頼っている面がかなりある。一番余計なことを考えていない頭が、一番本質をつかまえると思っている。だから寝起きの自分が捕まえたことが一番価値があると思っているのだ。

 

まあそれはともかく、言いたいことを言うだけではつまらない。自己満足になりがちだ。言いたいことを言っているだけの文章というのは世の中にたくさんあるけれども、それを読んでもあんまりそうだなと思うことは多くないし、また読んでいてそんなに楽しくない。だいたい言ってる方も言っててそんなに楽しくないだろう。ネットでもいろいろと悲憤慷慨したりしている人がいるが、どこか滑稽だ。言ってることが正しかったとしても、説得力がない。

 

楽しいのは言いたいことをいうことではなく、作りたいものを作ること、書きたいものを書くことの方にある。つまり言いたいことの内容をどういう形で表現するかということの方にあるわけだ。しかし作りたいものを作っているだけでは楽しいけれどもそれだけになり、同好の士の間で楽しむおたく的な楽しみの世界に終わってしまう。

 

つくりたいものをつくる中でも、そこに言いたいことが込められているときに、その作品の中に一本筋が通ることになる。そしてそれで食べて行くためには、商業的にも成功しなければならない。記憶で書いているので不確かだが、宮崎駿は作品として取り組むことにゴーを出すためには三つの条件がある、というようなことを言っていた。「それはつくられるべきものか」「それはつくるべきものか」「それは売れるか」という三つの問いにパスすること、だったかと思う。つくられるべきもの、つくるべき社会的意味は何かということをクリアすること、つくるべきもの、今それに取り組むという情熱がかきたてられるものであるという制作者にとってのいわば芸術的意味は何かということをクリアすること、そして売れるものであるか、つまり制作者集団を維持し関わる個々の人一人ひとりを食わせて行くことができるものであるか、ということをクリアすること、の三つだったと思う。(社会的意味、情熱的意味、商業的意味、とまとめるとわかりやすいか)

 

まあ全くもってもっともなことなのだけど、なかなかそれを実現するということは希有なことだ。それがやれてるからスタジオジブリという集団は何か奇跡のような存在なのだけど、その中核にいる宮崎駿という巨大な才能がなぜ成り立っているかというと、やはりそれは言いたいことをもっていて、やりたいことを実現できる技術と能力があって、そしてそれを売るだけの制作者、つまり鈴木敏夫がいるということなのだと思う。

 

ものを作ろうとするものが宮崎から学ぶべきことは本当に多いと思う。ただ今思っていることでいえば、やはり作りたいものを作るだけでなく、言いたいことをもって、それによって作品に一本の筋を通すということ、なぜこの作品が作られなければならないのかということに自覚して取り組むということが特に重要なことだと思った。

 

芝居を書いている友人が、社会主義も資本主義も終わってしまった後でも成立しうる演劇を書く、と病と闘いつつ苦闘している様をときどき某SNSで読むと、そこまで先鋭化して取り組めるということに感動してしまうのだけど、そんなふうに200年くらい先まで見通したような取り組み方、そういう作品を作ろうという意識でやれたらいい、と思いつつ、今のこの時代を乗り切るための力になるような作品を書きたいとも思うし、誰にどんなふうに生きてほしいのか、そんなことを考えつつ作品を書いて行かないといけないなあと思ったりもする。

 

このブログでもそういうようなわけで、何かしらこの現世を乗り切っていくのに役に立ちそうなことを少しでも書けたらいいなと思っていろいろなことを書いているし、書いて行こうと思っている。

 

(この文章は2012年2月15日にFeel in my bonesに掲載したエントリから修正の上転載したものです)