私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

『もののけ姫』再考:(その3)サンとアシタカの持つ「病のオーラ」と、「なぜサンはアシタカを癒そうとしたのか」

もののけ姫 イメージアルバム

 

(その2)からの続きです。

 

それではそうした絶望をこの作中で体現しているキャラクターは誰かと言えば、そんなことは言わなくてもわかると言われるかもしれないが、私はそれがはじめて「サン」であることを認識した。つまり私は「サン」というキャラクターについて、そこまで深く見られていなかったのだ。

 

私にとってこの話はあくまでアシタカの話であって、タタリ神と戦ったために呪いを受けエミシの村を追放され、新たな生きる場所を求めていく、そこで自分の運命と戦い、乗り越えていくという話の主旋律の方に立って見ていた。もちろん自然を壊して行くことによって必然的に人間に科せられるタタリ、のろいと言ったものを引きうけていかなければならない状況や、一度滅んだ太古の森=シシ神は二度と蘇らないという絶望、しかし本当の豊かさ失われたけどそれから後でも生きていかなければならない生命たちによって第二第三の森が作られて行くといったテーマも読んではいたけれども、「サンの絶望の深さ」というところは全然読めていなかったなと思う。

 

なぜサンがここまで人間を拒絶するのか。なぜアシタカだけは受け入れるのか。すべてが終わった後でもなぜ人と生きようとはしないのか。サンという存在はいままで自分には見えて来ないもので、そこに何を見るべきなのかについて考えて来なかった。というのは、おそらくは、見なかったというよりは私の中の何かが「見るな」といった、目を逸らさせていたのではないかと思えてきたのだった。

 

私がブログだけでなく、何か文章を書くとき心がけていることがあるのだけど、それは何かについての感想を書いたりするときは、なるべく自分のいのちの深いところで受け止めたことを書こうということだ。決して観念操作になりそうなことを書きたいとは思わない。その作品の目指すものがそういうものであったらそういうところに付き合うけれども、より深いところで受け止めたものを書くというのが私の書き方で、まあそうでなければ自分が文章を書く意味はないと思っている。

 

誰でもそういうふうに考えているわけではないのだということは最近分かってきたし、作品についてはなるべく作品の世界の中でのことについて書く、という方針もそれはそれでわかるしきちんと自他の区別がついていてそれはそれでいいなあとちょっと感心したりもしたのだけど、私にとって何か作品を見るということは自分の内面世界に何かの事件が起こるということなので、それが自分の中にある何かと戦うものである場合は戦わなければならないし、受け入れられないものであれば全力で排除しなければならない。

 

しかしそのように戦う中で受け入れる、つまり痛みを伴いながら何かを得る、ということが自分にとっての作品鑑賞であって、そこにしか自分の新しい価値を生み出す、見出すことができないように思われる。

 

まあだからおそらくは独善的になったり一方的になったりもしているだろうし、自分にとって受け入れられない作品については全然読めなかったりもする。村上春樹などはけっこうそういう作家なのだが、しかし受け入れられずに読み続けることによって自分の中の深いところでの鈴の共振みたいなものを感じることがあり、いやいやながら読み続けている。村上はそういうイヤな感じと気持ちを引かれる感じのブレンドが絶妙な人であって、だからあれだけ売れるのだろうなとは思う。

 

宮崎の作るものはアニメなので、そこに多くの救いがある。きれいな場面があればそれだけでほっとするし、ため息もつく。シシ神の泉の場面など、もうどうしようもなく素敵なのだが、ああいうのがあったら本当にこのあちこち故障のある体を直しに行きたいものだと思うし、ビジュアルな力、オーディオの力によって、見る側を「追い詰め過ぎない」ところがある。

 

サンにしても、私はそういう「癒し」を為す人がなぜそれだけ頑ななのか、という方向に考えてしまったのだけど、むしろ頑なな人間がなぜアシタカを癒そうとしたのか、と考えるべきだったのだな、と今では思う。

 

もともとこの映画は「ティーンエイジャー向け」だと宮崎は言っていて、その意味は「この映画が精神的に健康で丈夫な人のためのものではないですから、自分が十分に痛みを持っている人たちには、あれだけのアシタカとサンの描写で十分に彼らの痛みが通じると思ったからです」と言っている。

 

この言葉も実に衝撃的で、言われてみてはじめてこの映画全体にそこはかとなく漂っている「病のオーラ」みたいなものがそういうことだったのかと思わされた。宮崎は他のところでこの映画について「ひたすらスタッフを食いつぶして行く映画」であると言っているけれども、ある意味そういう病のオーラに照準を合わせることの無理やりさみたいなことを言っているんだなということも初めて合点が行った。

 

(その4)に続きます。