私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

『もののけ姫」再考:(その4)生きるということの大変さは、生きるということそのものの中にある

「もののけ姫」はこうして生まれた。 [DVD]

 

 

 

15世紀、すなわち戦国時代に日本の歴史の転換点があったということは日本史学上いわれていることだが、宮崎はその転換を「産業的な飛躍」ととらえ、そのために「経済成長と同時にひどく無思想な、理想のない行動をたくさんするようになった」のだという。

 

すなわちこの映画の舞台にこの時代をおいた彼の視点は、「現代の日本への批判」でもありつつ、「人間という生き物、存在をもっと深く考えなければいけない」という根源的な「人間批判」も含み、しかし「ただの批判からは何も新しいものが生まれて来ないですから、新しい感覚をつくりだすことを考えるべき」だと述べていて、そういう意味ではそうした「新しい感覚の提案」としてこの映画を作ったのだということを示唆している。

 

それはつまり人間の業というものを前提とした考え方で、「自然を滅ぼしてしまうことで自らも傷を負いながら、自然から搾取するという形で生かしてもらいながらでなければ、人間は生きられないのだ」ということを踏まえたうえでなお、人としてどう生きるのか、という問いかけていく姿勢を提案しているのだと言えばいいだろうかと思う。

 

アシタカが作中で「鎮まれ、鎮まりたまえ」と何度もいう、その日本的な自然観を表現したいというのもその、人として自然に対し必死でなだめながら自然を利用して生かしてもらう、ということの一部だろう。

 

「コントロールできなくなった憎悪をどうやったらコントロールできるか」というテーマもここで示されているのだけど、これについてはあまり考えてないのでまたの機会にしたい。しかしこれは同時多発テロ以降より一層重要になってきたテーマであって、まだまだ多くの表現者が取り組まなければならないものではないかと思う。

 

「サンは自然を代表しているのではなくて、人間の冒している行為に対する怒りと憎しみを持っている。つまり今現代に生きている人間が人間に対して感じている疑問を代表しているんです」というのも言われてみてなるほどと思った。

 

サンは人間を否定している。醜いものだと思っている。生きる意味がないと思っている。しかしアシタカはたとえそうであっても、人は生きなければならないと言っている。生きろ、と言っている。

 

人は生きなければならない。たとえ美しくても。確かに醜くても。善人であっても。悪人であっても。生きて。そして死んでいく。人が生きるということの大変さは、生きるということそのものの中にある。

 

(その5)に続きます。