『もののけ姫』再考:(その5)「子どもたちの冷えた心の闇」への通路と「表現としてのアニメーション」
(その4)からの続きです。
「サンとアシタカは、実は私たちのまわりにいるたくさんの子どもたちの中で精一杯生きているのです。ですから大人たちには分からなかったけど、アシタカがサンに「生きろ」と言った時に、「生きよう」と心に決めた子どもたちがずいぶんいたんです。そういう手紙をたくさんもらいました。」
宮崎は子どもたちの中にサンとアシタカの姿を見、そしてそれを描いた、のだという。
「生きようと決める」ということ。
そう、私も、この年まで生きて来たのは、ある時点で「生きるんだ」と思ったからなのだ。
私は『もののけ姫』でそう思ったわけではないけれども、もし十代、特にその前半でこの映画を見ていたら同じような感想を持ったかもしれないなと思う。
ものの作り手として、宮崎は、子どもたちの心の冷えた闇とそれを暖める何かに通じる、秘密の回路を持っているのだな、と思う。
子どもの心に通じるということでは、こういうことも言っている。
暴力的な描写について尋ねられた宮崎は、「子どもたちの内面に確実に存在している暴力」に触れないことには「子どもたちに説得力を持たない」し、「バイオレンスを楽しむ映画ではない」から、「ぼくは自信を持って言います。「もののけ姫」を見て子供たちが真似をして人を傷つけることは絶対にないと。」と言っていて、まあそりゃそうだなと思った。
宮崎映画での暴力は人間の業として以外は描かれていない。その業を引きうけるために暴力をふるいたい、と思うような子どもは、もはや子供ではないだろうと思う。
監督に影響を与えたものは何ですか、という問いに対し、『雪の女王』や『白蛇伝』を上げている。
「(ディズニーよりも)そういう作品の方がはるかにインパクトがありました。それは人間の心や思いを描いていたからです。ぼくはこれらの作品に感動して、人間の心を描くにはアニメーションが一番表現手段として力を発揮するだろうと思ってこの世界に入ったんです。」
宮崎にとっていかにアニメという表現手段が絶対的なものなのか、ということをこれを読んで強く思った。そしてこうしたインタビューなどで実に饒舌な彼がなぜアニメ制作をやめず、文字を書く作家にならないのかということにも心の底から合点が行った。彼にはアニメしかなく、アニメを彼が生きているのだと。
それは我々及び我々以下の世代のおたくがアニメしかないというのとは全く違った次元なのだ。宮崎はアニメおたくをジブリにとりたがらないと言うけれども、求めるものが違うのだから、それはそうだろうと思う。これからはおたく以外の、表現手段としてアニメを求める、つまりアニメの世界で自足してしまわない人がアニメの世界に入り、アニメの世界を担っていってくれるといいなと思う。そうした可能性を考えていると楽しい。