私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

宮崎駿が『風立ちぬ』で描こうとしたもの(1)

ジ・アート・オブ 風立ちぬ (ジブリTHE ARTシリーズ)

風立ちぬ』についていろいろ書きたい、という感じがすごくあるのだが、しかしながら書く材料が不足している、という感じもある。また、まだ公開間もなく見ていない人が多い段階で書くべきでないということもかなりあるし、この意見は納得できないという多くの意見に対しても、はっきりと見解の相違みたいなこともあって、そうなるとその背景の立場の違いのようなものを書かなければ意味がなくなるから、そう軽々には書けない、ということもある。逆に言えばそれだけこの作品の射程が長いということで、語られるべきことがもともととても多いということなのだ。

 

かなり多くの部分は、現代の日本人、ここ数十年の日本人が見ないようにしてきたこと、知らないふりをしてきたことを、もう一度思い出した方がいいのではないか、本当は昔の日本人の方が、今のわれわれよりも美しかったんじゃないかということにあって、おそらくはその評価に対する戸惑いというものがあるのだろうと思う。つまりあの宮崎駿が、たとえば小林よしのりみたいなことを言っているという戸惑いなのだ。

 

もちろんこの作品で、宮崎は小林のように昔の日本人をストレートに称賛しているわけではない。しかし何も言わない、主張しない普通の人々の、そのあり方の美しさ、たたずまいの美しさ、心根の美しさを描いているのだから、思想的に言っていわゆる左翼の側に属する人々の、強力な心の支えのひとつだった宮崎を、どうとられていいのか分からなくなっている人は多いのではないかと思う。

 

しかし思い起こして見れば、日本の左翼というのはもともとある意味矛盾に満ちた存在で、自由平等民主は唱えても天皇は尊いものと考えるのはまったく珍しいことではなかった。宮崎本人が天皇制についてどう考えているのかは別にして、彼はそういう古いタイプの、新左翼出現以前のオールドリベラリストの系譜を引く表現者だと考えるべきなのだと思うし、彼が実はこれだけ多くの国民の支持を得ているということは、日本人が最も支持したい心情的な思想はオールドリベラリズムであったと考えるべきなのではないかと思う。

 

オールドリベラリズムは、思想的には洗練されていないし、何というか半分日本の土着の思想みたいなところがあって、68年の世代から徹底的に攻撃を受けて壊滅して行った、もう残滓のようなものだと思ってはいたけれども、でもやはり私はそれをとても好ましいと思う、そう言う思想なのだと思った。

 

私は長い間、宮崎駿戦後民主主義表現者だと思ってきていて、そういう意味で敢えて見て来なかったのだけど、一度見てしまうとその言説はともかく、作品内容はそんな甘いものではないということは理解できた。しかし今まであまりよくその本質は分からないできたのだけど、言わば戦前的な自由主義思想が彼のベースにあると考えるといろいろなことがとても了解できる気がする。

 

日本が豊かだ、というのはある意味虚飾であって、日本は貧しい国だという本質が、たぶんそんなに大きくは変わっていない。ただ彼が描くのは『火垂の墓』のような陰惨な貧しさではなく、ひもじくとも人に恵んでもらうことを拒否する、そういう誇り高い貧しさだった。その貧しさの中で生きていた人々は、生きていること自体が奇跡であり、恵みであり、いつ死ぬか分からないことがデフォルトの中で、その許された短い時間の中で、(作中でも生産的な時間は10年だとか、結核の菜穂子が私たちには時間がない、という場面がある)いかに懸命に、自分が最大限納得できるように生きるかというテーマが示される。その中で生きている人々は、間違いなく美しい。

 

(その2)に続きます。