私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

宮崎駿が『風立ちぬ』で描こうとしたもの(2)

アニメージュ 2013年 08月号 [雑誌]

 

(その1)からの続きです。

 

こうした匂いを感じさせるのは、たとえば白洲正子がそうだった。彼女は旧華族家の跳ね返りでどうじたばたしても生きているという実感をつかめずに、親を驚かせる結婚をしたり、女性で初めて能舞台に立ったり、自分が本当に生き切るためにはどうしたらいいのか、悪戦苦闘を続けていた。それが小林秀雄ら文学者との出会いで生きる道を獲得して行くわけであるが、戦中の彼女が、隠棲していた鶴川の武相荘に人が訪ねて来る度に、「この人と会うのはこれで最後かもしれない」と思い、自然に和やかな雰囲気になった、ということを書いていて、特に菜穂子と二郎の間にあった思いは、常にそういうものだったのだろうと思った。

 

生きるということは、生きてるということは、まず「死なない」ということであって、でもそれは、「死ぬかもしれない」という紛れもない現実に裏付けられている。だからこそ、ただ生きるのでなく、よく生きようとする。それはソクラテスの思想であるけれども、その「よく」というのをどう解釈するかは、その民族性・国民性によって違うのだろうと思う。日本人の場合は、より美しく生きたい、と思った人が多かったのではないだろうか。

 

より正義を実現するために、より勇気を持って勇敢に、よりこの世を楽しんで、というさまざまな基準と同じように、「より美しく生きる」ということもまた「よりよく生きる」行き方のひとつだろう。そして、より勇敢に生きるという思いもそれを人に押し付ければ迷惑であるように、より美しく生きる、ということも押し付けるべきことではない。人は自分の生き方を自分で決めるべきであって、であるからそこに必然的に伴って来る苦さもまた、引き受けなければならない。

 

そしてそれは、当然傷つくことだろう。宮崎駿庵野秀明を二郎の声にした理由を、宮崎はアニメージュの対談で「現代で最も傷つく生き方をしているから」と説明していた。

 

私もそういう目でこの役を見ていたので、見終わってからネットで「二郎はロボットみたいで感情が感じられない」という批評があったことにびっくり仰天してしまった。

 

その認識の齟齬がどこから起こったのかについては岩崎夏海ツイッターで分析していたが、やはり「世の中にはいろいろな人間がいて、いろいろな生き方をしている」ということが分からない、受け入れられない人が増えている、ということが一番大きいんだろうと思う。

 

正直私などは、二郎以上に人間的な人はなかなかいないんじゃないかと思って見ていた。よくわからないけれども、感情の奴隷として生きているような人間が人間らしいと評価されるような時代に私たちは生きてるのかなとも思うし、ただそういう人が声高なだけで、多くの人は寡黙な中に、菜穂子への愛をもって、自分の作りたい美しい飛行機を作るためにただひたすらに邁進して行く二郎というキャラクターに人間らしさを感じることが出来る人の方が多いだろうとも思う。

 

小林よしのりは思想家だから(と言うと彼は否定すると思うが)、在りし日の日本人の美しさをベースにしてこの日本を立て直すべきだと主張するし、小林に反対する人たちは戦争の意図やさまざまなものと十把一絡げにして昔の日本人のあり方そのものを否定しようとする。宮崎はクリエイターだから自分が美しいと思うものをそのまま描きだし、そしてそれが大きな苦さの源になることもまた、引き受けようとするのだろう、と思う。