マンガ版「風の谷のナウシカ」を読んだ。(1)7巻の展開に激しい抵抗を感じた。
2010年の10月、アニメ版の『風の谷のナウシカ』を観たあと、マンガ版の『ナウシカ』7巻を一度に買った。
夜、カフェのレストランで少し読み、家に帰って家事的なことをかたづけながら3巻まで読んだ。起きてから、特急に乗って帰郷するあいだに7巻の途中まで読み、自室についてから寝る前の時間に最後まで読み切った。ほぼ一昼夜で読破したことになる。
B5判の大きさなので読みやすいだろうと思ったら飛んでもない、もともとの版型がもっと大きかったのだろうか、絵がかなり詰まっていて、予想外に読みにくかった。慣れて来ると気にならなくなっては来たが。
『ナウシカ』はすごい。アニメもすごかったが、その世界を描き切ったマンガもかなり凄かった。宮崎駿というのはもともとこういう世界を持った人なのかと瞠目させられる。
7巻の途中まではずっと「表現」がすごいなあとか思っていた(4巻のチククがいた神聖な場所での骨たちのせりふ、「永く待ったかいがありましたね」「ええ…風が来ました」「やさしく猛々しい風が…」とか「森の人」の奥地で皇弟が成仏するところとか)のだが、7巻の途中からかなり判断が揺さぶられることになった。
古い文明が保存された場所でトルメキアの王子たちが音楽に夢中になっている地上楽園みたいな場所は、『ナルニア』の朝びらき丸が東の海の上で見つけた島々のように神聖で清浄な場所だと思った。
宮崎駿という人は「神聖さ」というものがどんなものだか知っているのだなと思う。しかし、最後にそれらを全否定する方向に話が行って、何をどう考えればいいのかわからなくなったところがあった。
ただ、森の人との会話でもそうだが、やはりナウシカは苦界で生きる、という決意のようなものをそこで示しているのだ。彼女は救世主であり、衆生救済を願とした観音菩薩みたいな感じになっている。
そこには、予定調和的な過去の人類による予定された救済を激しく拒否する姿勢がある。
「新しい穏やかで優れた人類の卵たち」を、ナウシカは虐殺する。あの場面には、賛否両論があるのではないかと思った。
というか私は、そこは許せないと思うくらいの抵抗を感じた。
(その2)に続きます。