私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

マンガ版『風の谷のナウシカ』を読んだ。(2)ナウシカは、風の谷に帰らない。

 

風の谷のナウシカ 豪華装幀本(下巻)

 

(その1)からの続きです。

 

ナウシカはなぜ、「新しい穏やかで優れた人類たちの卵」を虐殺したのか。

 

単純に考えれば、そんなことは許せない、としか思えない。

 

しかし、ここではそこに何が表現されているかということを見るべきなんだろうと思う。

 

私は、宮崎自身がナウシカのようなこういう突き抜けた方向性をこれ以上追求するのをやめて、『ラピュタ』以降の子供向けのアニメに舞い降りて行ったことに、それを説くヒントがあるように思った。

 

それはつまり、アートの「清浄な世界」ではなくビジネスの「苦界」に身を沈めて、そこでメッセージを発信して行くことを選んだ、その決意の表れがこういう表現になったのではないか、と私は思った。

 

人がとやかく言うことではないが、相当苦しんだのだろう。そうでなければこんな表現はできないと思う。それが宮崎の自由であり、運命であり、業であり、選択であったのだと思う。

 

もう一つの読み方としては、同じ清浄な世界でも森の人の世界の奥、皇弟が成仏した空間は肯定的にとらえられ、旧世界の音楽と技芸の秘密の場所は否定的にとらえられているのは、前者が多神教的・自然崇拝的な場所であり、後者が一神教的な「復活の予定」に彩られた空間であるから、と考えることもできるなと思う。

 

宮崎の世界はいうまでもなく圧倒的に前者であって、後者の文明こそが人類を滅びに導くものだという確信が、もちろん明示はされないけれども、あるように思う。

 

それにしても、書き切っているなあと思う。やはり読んでみて、自分の中でそういう反発があるということは、自分は多神教的世界観だと思っていたけれども、一神教的な世界へのあこがれも確かにあるんだなと思った。反発というものは、ある種の新しい発見の序章であって、創造の始まりでもあるのだなと思う。

 

ラピュタ』でも『もののけ姫』でも、パズーもアシタカも故郷には「帰らない」。『ナウシカ』はアニメでは風の谷に帰るので、ナウシカの段階では違ったのかなと思ったのだが、マンガを読むとやはりナウシカも「帰らない」んだなあと思った。

 

唐突だがここで、「耳をすませば」の劇中歌、「カントリーロード」を思い出す。

 

どんなくじけそうなときだって 決して涙を見せないで

心なしか歩調が早くなって行く 思い出消すため

 

カントリーロード 明日はいつものぼくさ

帰りたい 帰れない さよなら カントリーロード

 

ナウシカも、宮崎も、そしてパズーも、アシタカも、キキも、ポルコも、ソフィーも、ポニョも、帰らない。行きっぱなしであり、明日へただ向かって行く。そういう意味では、「風立ちぬ」まで宮崎はずっとそうだったのだ。(ある種の「異界」が描かれた『となりのトトロ』と「千と千尋の神隠し」では「この世」に帰っては来るが)

 

蛇足ながら、マンガ版「ナウシカ」を読みながら、『エヴァンゲリオン』のことをいろいろ思い出していた。

 

誰か指摘していることかもしれないが、「エヴァ」というのは「ナウシカ」への裏返しのオマージュというか、血を吐くようなパロディでありアンチテーゼなんだなと思った。出てくるアイテムがいろいろ似過ぎている。使徒。エヴァ巨神兵人類補完計画、滅びるべき人類が生き残ること、など。

 

これは、80年代から90年代への傷だらけの輪廻転生なのかもしれない。切っても切れない師弟関係なのではないかと思う。

 

庵野監督が『ナウシカ2』を撮ると言う話が、浮かんでは雲散霧消しているけれども、そういうこともあってもいいかもしれないと、最近は思っている。