私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

『One Piece』の尾田栄一郎さんと宮崎アニメと『くるみ割り人形』。

One Piece』の尾田栄一郎さんと宮崎アニメと『くるみ割り人形』。

三鷹の森ジブリ美術館『クルミわり人形とネズミの王さま展〜メルヘンのたからもの〜』をやっているそうです。(5月31日〜来年5月(予定))

 

私はスタジオジブリの広報誌「熱風」を定期購読しているのですが、(大手書店には置いてありますが、年間購読料2000円で自宅に郵送されて来るので確実です)7月号の特集はこの展示についてでした。

くるみわりにんぎょう

これは、昨年長編アニメ作品からの「引退」を表明した宮崎駿監督が精力的に取り組んだ展示で、アリソン・ジェイさんの絵本「くるみわりにんぎょう」(詩人の蜂飼耳さんの訳です)を宮崎さんが読んだことがきっかけになったそうなのですが、宮崎さん自身の絵もたくさんあるそうです。私はまだジブリ美術館には行ったことがありませんし、当然この展覧会も見ていないのですが、『熱風』に寄せられた『One Piece』の作者・尾田栄一郎さんの感想を読んで、ちょっとこのことについて書いてみたいと思ったのです。

特集で取り上げられているのは宮崎さん自身の談話、アリソン・ジェイさんのインタビューの他、ドイツ文学の翻訳家(このお話はもともとはドイツの幻想小説家・ホフマンの「クルミわり人形とネズミの王さま」が原作なのです)の若松宣子さんの解説、マンガ家竹宮恵子さん、音楽評論家の渋谷陽一さん(渋谷さんは宮崎さんへのインタビューを何度も行っていますね)、それに『One Piece』の尾田栄一郎さんの感想が掲載されています。

知りませんでしたが、尾田栄一郎さんは宮崎さんの大ファンなのだそうです。ですから宮崎さんが「アカデミー賞授賞式にも行かずに」準備していたこの展示を凄く楽しみにしていて、とても満足したそうです。

 

クルミわりとネズミの王さま (岩波少年文庫)

 

ホフマンの原作には「七つ頭のネズミの王さま」というのが出てくるそうなのですが、それがぬいぐるみで表現されている(!)という話が面白いですし、それが強そうではなくやわらかく表現されているのが「これだ!」という感じだったのだそうです。

宮崎さんも書いているのですが、ホフマンの原作は読んでも理解できない、つまり「つじつまがあってない」作品なのだそうです。(原作は読んでないので知りませんでしたが)それはこの原作は「連載マンガ」みたいなものだからだ、と書いているのが尾田さんらしいなと思いました。

私たちが子どもの頃(と言っても尾田さんは私より10歳以上下ですが)、マンガというものはつじつまが合ってないものでした。「キン肉マン」などはそのとき面白かったらいい、という感じで全然つじつまが合ってなかったのです。

 

一方、『One Piece』は恐ろしくつじつまが合っている。というか、何年も前に出て来たキャラクターが実はこういう存在だった、といって話の隙間を埋めながら話が展開して行く壮大な物語なんですね。私も最近の作品を読むようになってから、『進撃の巨人』なども「つじつまが合っている」からこそ、『作者の意図は何か』とか『この筋はこう展開するのではないか』などとみながネットで予想しているわけですが、いつからマンガというものはこういう『きちんとつじつまが合っている』ものになったのか、というのは不思議に思っていました。

尾田さんのこの文章を読んで知ったのは、尾田さん自身が、マンガ家になったときに、それまでのマンガはつじつまが合わなくても平気と言うものだったから、「きちんとつじつまを合わせた物語を作ってみたい」と思って書き始めたのが『One Piece』だった、ということです。

今はみんな口うるさくなって、矛盾をより細かく指摘する人が『偉い』という風潮が生まれたと尾田さんはいいますが、つまりは尾田さん自身が生み出した流れが今は主流になって、(そりゃ3億冊のヒットですからね)「マンガとはそう言うもの」になってしまったのだ、と尾田さんはいうわけです。

でも物語というものには本来、そんなルールはないはずなんだ、と尾田さんが言ってるのは新鮮でした。自分は一つの挑戦としてそれをやってみたかったのだけど、本来もっと自由でいいはずなんだと。例えばこのホフマンの作品は、そう言う自由な発想で書かれている、と尾田さんは言います。

宮崎さんの作品も、つじつまが合うという点では『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』を超えるものはない、と尾田さんは言います。もう『千と千尋の神隠し』以降はつじつまが合わなくてもいいから描きたいものは描く、という姿勢になっていると。だから『クルミわり人形とネズミの王さま』にあって「これでいいんだ!ドーン」って思ったのかな、と思ったのだそうです。(「ドーン」とか「どーん」というのはOne Pieceによく出て来る擬音です。)

 

ONE PIECE 72 (ジャンプコミックス)

 

尾田さんが『クルミわり人形』についているというのを知って、私がまず思い浮かべたのは、今連載が続いている『One Piece』のドレスローザ編に出てくる人形の「片足の兵隊さん」でした。片足であることをのぞけば、クルミわり人形とそっくりです。このクルミわり人形は実は物語中に出て来るレベッカという女の子のお父さんなのですが、そこに娘を持つ父親でもある尾田さんの親子関係、願望が投影されているのだそうです。もともと親子関係というものは、恥ずかしくて作中には描けなかったのが、はじめてニコ・ロビンと母親の関係で「実の親子」の関係を描いたのだそうです。

確かに、私も考古学者の島・オハラの話でロビンの母親が出て来たとき、「実の親子は初めてだな」と思いました。(設定上は、革命家ドラゴンが実は主人公ルフィの父、という設定はあるはずなのですが、この時点では明らかにされていません)それは、自分の中の親子のイメージが、両親と自分という関係から自分と妻と子供、という関係に変化したことの現れ、なのだそうです。そう言う話もとても面白く感じました。

尾田さんは本当に宮崎さんのファンらしく、とにかく宮崎さんの絵を見たい、もっともっと描いてほしい、と思っているんだそうです。「ちょっとした落書きだって、宮崎さんが描くと凄く雰囲気がいい。見ていてほっとするんです」と言われていて、それは本当に良くわかるなあと思いました。作家、特に絵を描く人の本当の才能のようなものは、むしろそう言うところに現れるんじゃないかな、と私も思います。

「クルミわり人形」、宮崎駿さん、尾田栄一郎さん。それぞれ名作であり、巨匠であり、大人気作家であるわけですが、そうやって受け継がれて行くもの、流れて行くものがあるんだなというのを見ていると、素敵な気持ちになります。

世の中は、そんなに悪いものでもないんだな、って。