私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

宮崎駿『本へのとびら 岩波少年文庫を語る』を読んだ。:「子どもに向かって絶望を説くな」というぶれのなさを感じた。

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

 

宮崎駿『本へのとびら 岩波少年文庫を語る』(岩波新書、2011)。これは宮崎が岩波少年文庫の50冊を上げて、それについての紹介が前半で、後半がそれについて論じるところと、子どもに向けてどんな作品を作ればいいか、どんな作品を読んでもらいたいか、という話があって、基本はやはり「子どもに向かって絶望を説くな」ということだというコメントがやはり宮崎は立派だなというか、ぶれない人だなと思った。

 

宮崎という人はやはりもの凄く矛盾に満ちた天才だと思うのだが、やはりそこのところだけはぶれてないわけで、自分がいろいろ考えていて迷いにはまったとき、そのぶれなさは一つの灯台のような心強さを覚える。その灯台をたよりにして新しいものを作って行こうという気になれる。そういう人だなと思った。

 

児童文学は「やり直しがきく話」だ、というのも全くその通りだと思う。そして、何度でもやり直さなければならない現代という時代に、やり直せない話ばかりで袋小路に追い込んでも仕方ないわけで、いまはとにかくトライして行く、何度でもやり直して行く、そういう話が必要なんじゃないかと思った。

 

そのほか気になったところ、なるほどと思ったところをいくつか。

 

「不信と依存は同時にあるものだけど、依存を認めなければ子どもの世界を理解したことにはならない。…子どもは賢くもなるけれども何度も馬鹿をやる。繰り返し馬鹿をやる権利を子どもたちは持っている。幼児の世界は特にそうだ。そういう世界をてらいもなしにポンと投げ出すように書いたのが『いやいやえん』だ。」

 

いやいやえん―童話 (福音館創作童話シリーズ)

 

『いやいやえん』は私も何度も読んだのでなるほどと思う。『ぐりとぐら』は読んでないけど、同じ作者だということはこの本で知った。

 

「『借り暮らしのアリエッティ』を作ったのは、今や大人たち、いや人間たちが、まるで世界に対して無力な小人のような存在になってしまっていると思ったからです。」

 

借りぐらしのアリエッティ [DVD]

 

「(震災後)やけくそのデカダンスニヒリズムや享楽主義は一段と強くなると思います。ぎすぎすするでしょう。…歴史が動き始めたんです。」

 

「風が吹き始めました。…この風はさわやかな風ではありません。恐ろしく轟々と吹き抜ける風です。死を含み、毒を含む風です。人生を根こそぎにしようという風です。」

 

風の谷のナウシカ』の「腐海」の「瘴気」の記述を思い出させる。時代はついにその時代を迎えたという認識が宮崎にあるのだろうか。

 

それにしても子どもたちは(いやもちろん我々自身も)この時代を生きて行くわけで、その子どもたちに向かって人生は生きるに値する、生まれてきてよかったんだ、と説き続けるのが自分の仕事だと彼は思っていてその考えはぶれることがない。考えてみたら『ナウシカ』というのは本当にそういう話だった。特に漫画版。

 

風の谷のナウシカ 7

鈴木敏夫『映画道楽』

映画道楽 (角川文庫)

スタジオジブリの鈴木プロデューサーの新刊、鈴木敏夫『映画道楽』(角川文庫、2012)を買った。これは2005年にぴあから発売されていたものの文庫化だとのこと。読みやすいし、いろいろと面白い。鈴木氏の本はどれも面白いので出てるとすぐ買ってしまうのだけど、どこが面白かったということが書きにくい本が多くて、全体的に面白いとしか言いようがない感じがする。

 

その中でこれが印象に残ったと言えるのが、昭和40年代の映画の宣伝コピー。たとえば『座頭市海を渡る』で「市が斬られた!しかも相手はか弱い娘!今度ばかりは勝手が違う!抜き差しならぬ仕込杖!」であるとか、『座頭市鉄火旅』の「もうひとり斬れば刀が折れる!むらがる敵は三十人!いつ抜く、どう斬る座頭市!」であるとか、『眠り狂四郎無頼剣』の「あいつは俺の影なのだ!流派も同じ、腕なら互角!同時に回る円月殺法!斬れば斬られる狂四郎の危機!」というようなもの。何かすごいという印象だけなのだけど。(笑)

 

またこれは高畑勲の分析として紹介されているのだが、ハリウッドではある時期まで映画のテーマはすべてLOVEだった、それがある時期から哲学に、それを分かりやすく言うと「生きる」というテーマになった、というのはなるほどと思った。

 

随所にあるこういう具体例の紹介や、本質的な傾向の分析などに、いろいろ触発されることが多く、いつも面白いなと思う。

『もののけ姫』再考:(その5)「子どもたちの冷えた心の闇」への通路と「表現としてのアニメーション」

もののけ姫 (ロマンアルバム)

 

 

 

(その4)からの続きです。

 

「サンとアシタカは、実は私たちのまわりにいるたくさんの子どもたちの中で精一杯生きているのです。ですから大人たちには分からなかったけど、アシタカがサンに「生きろ」と言った時に、「生きよう」と心に決めた子どもたちがずいぶんいたんです。そういう手紙をたくさんもらいました。」

 

宮崎は子どもたちの中にサンとアシタカの姿を見、そしてそれを描いた、のだという。

 

「生きようと決める」ということ。

 

そう、私も、この年まで生きて来たのは、ある時点で「生きるんだ」と思ったからなのだ。

 

私は『もののけ姫』でそう思ったわけではないけれども、もし十代、特にその前半でこの映画を見ていたら同じような感想を持ったかもしれないなと思う。

 

ものの作り手として、宮崎は、子どもたちの心の冷えた闇とそれを暖める何かに通じる、秘密の回路を持っているのだな、と思う。

 

子どもの心に通じるということでは、こういうことも言っている。

 

暴力的な描写について尋ねられた宮崎は、「子どもたちの内面に確実に存在している暴力」に触れないことには「子どもたちに説得力を持たない」し、「バイオレンスを楽しむ映画ではない」から、「ぼくは自信を持って言います。「もののけ姫」を見て子供たちが真似をして人を傷つけることは絶対にないと。」と言っていて、まあそりゃそうだなと思った。

 

宮崎映画での暴力は人間の業として以外は描かれていない。その業を引きうけるために暴力をふるいたい、と思うような子どもは、もはや子供ではないだろうと思う。

 

監督に影響を与えたものは何ですか、という問いに対し、『雪の女王』や『白蛇伝』を上げている。

 

「(ディズニーよりも)そういう作品の方がはるかにインパクトがありました。それは人間の心や思いを描いていたからです。ぼくはこれらの作品に感動して、人間の心を描くにはアニメーションが一番表現手段として力を発揮するだろうと思ってこの世界に入ったんです。」

 

宮崎にとっていかにアニメという表現手段が絶対的なものなのか、ということをこれを読んで強く思った。そしてこうしたインタビューなどで実に饒舌な彼がなぜアニメ制作をやめず、文字を書く作家にならないのかということにも心の底から合点が行った。彼にはアニメしかなく、アニメを彼が生きているのだと。

 

それは我々及び我々以下の世代のおたくがアニメしかないというのとは全く違った次元なのだ。宮崎はアニメおたくをジブリにとりたがらないと言うけれども、求めるものが違うのだから、それはそうだろうと思う。これからはおたく以外の、表現手段としてアニメを求める、つまりアニメの世界で自足してしまわない人がアニメの世界に入り、アニメの世界を担っていってくれるといいなと思う。そうした可能性を考えていると楽しい。

『もののけ姫」再考:(その4)生きるということの大変さは、生きるということそのものの中にある

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15世紀、すなわち戦国時代に日本の歴史の転換点があったということは日本史学上いわれていることだが、宮崎はその転換を「産業的な飛躍」ととらえ、そのために「経済成長と同時にひどく無思想な、理想のない行動をたくさんするようになった」のだという。

 

すなわちこの映画の舞台にこの時代をおいた彼の視点は、「現代の日本への批判」でもありつつ、「人間という生き物、存在をもっと深く考えなければいけない」という根源的な「人間批判」も含み、しかし「ただの批判からは何も新しいものが生まれて来ないですから、新しい感覚をつくりだすことを考えるべき」だと述べていて、そういう意味ではそうした「新しい感覚の提案」としてこの映画を作ったのだということを示唆している。

 

それはつまり人間の業というものを前提とした考え方で、「自然を滅ぼしてしまうことで自らも傷を負いながら、自然から搾取するという形で生かしてもらいながらでなければ、人間は生きられないのだ」ということを踏まえたうえでなお、人としてどう生きるのか、という問いかけていく姿勢を提案しているのだと言えばいいだろうかと思う。

 

アシタカが作中で「鎮まれ、鎮まりたまえ」と何度もいう、その日本的な自然観を表現したいというのもその、人として自然に対し必死でなだめながら自然を利用して生かしてもらう、ということの一部だろう。

 

「コントロールできなくなった憎悪をどうやったらコントロールできるか」というテーマもここで示されているのだけど、これについてはあまり考えてないのでまたの機会にしたい。しかしこれは同時多発テロ以降より一層重要になってきたテーマであって、まだまだ多くの表現者が取り組まなければならないものではないかと思う。

 

「サンは自然を代表しているのではなくて、人間の冒している行為に対する怒りと憎しみを持っている。つまり今現代に生きている人間が人間に対して感じている疑問を代表しているんです」というのも言われてみてなるほどと思った。

 

サンは人間を否定している。醜いものだと思っている。生きる意味がないと思っている。しかしアシタカはたとえそうであっても、人は生きなければならないと言っている。生きろ、と言っている。

 

人は生きなければならない。たとえ美しくても。確かに醜くても。善人であっても。悪人であっても。生きて。そして死んでいく。人が生きるということの大変さは、生きるということそのものの中にある。

 

(その5)に続きます。

『もののけ姫』再考:(その3)サンとアシタカの持つ「病のオーラ」と、「なぜサンはアシタカを癒そうとしたのか」

もののけ姫 イメージアルバム

 

(その2)からの続きです。

 

それではそうした絶望をこの作中で体現しているキャラクターは誰かと言えば、そんなことは言わなくてもわかると言われるかもしれないが、私はそれがはじめて「サン」であることを認識した。つまり私は「サン」というキャラクターについて、そこまで深く見られていなかったのだ。

 

私にとってこの話はあくまでアシタカの話であって、タタリ神と戦ったために呪いを受けエミシの村を追放され、新たな生きる場所を求めていく、そこで自分の運命と戦い、乗り越えていくという話の主旋律の方に立って見ていた。もちろん自然を壊して行くことによって必然的に人間に科せられるタタリ、のろいと言ったものを引きうけていかなければならない状況や、一度滅んだ太古の森=シシ神は二度と蘇らないという絶望、しかし本当の豊かさ失われたけどそれから後でも生きていかなければならない生命たちによって第二第三の森が作られて行くといったテーマも読んではいたけれども、「サンの絶望の深さ」というところは全然読めていなかったなと思う。

 

なぜサンがここまで人間を拒絶するのか。なぜアシタカだけは受け入れるのか。すべてが終わった後でもなぜ人と生きようとはしないのか。サンという存在はいままで自分には見えて来ないもので、そこに何を見るべきなのかについて考えて来なかった。というのは、おそらくは、見なかったというよりは私の中の何かが「見るな」といった、目を逸らさせていたのではないかと思えてきたのだった。

 

私がブログだけでなく、何か文章を書くとき心がけていることがあるのだけど、それは何かについての感想を書いたりするときは、なるべく自分のいのちの深いところで受け止めたことを書こうということだ。決して観念操作になりそうなことを書きたいとは思わない。その作品の目指すものがそういうものであったらそういうところに付き合うけれども、より深いところで受け止めたものを書くというのが私の書き方で、まあそうでなければ自分が文章を書く意味はないと思っている。

 

誰でもそういうふうに考えているわけではないのだということは最近分かってきたし、作品についてはなるべく作品の世界の中でのことについて書く、という方針もそれはそれでわかるしきちんと自他の区別がついていてそれはそれでいいなあとちょっと感心したりもしたのだけど、私にとって何か作品を見るということは自分の内面世界に何かの事件が起こるということなので、それが自分の中にある何かと戦うものである場合は戦わなければならないし、受け入れられないものであれば全力で排除しなければならない。

 

しかしそのように戦う中で受け入れる、つまり痛みを伴いながら何かを得る、ということが自分にとっての作品鑑賞であって、そこにしか自分の新しい価値を生み出す、見出すことができないように思われる。

 

まあだからおそらくは独善的になったり一方的になったりもしているだろうし、自分にとって受け入れられない作品については全然読めなかったりもする。村上春樹などはけっこうそういう作家なのだが、しかし受け入れられずに読み続けることによって自分の中の深いところでの鈴の共振みたいなものを感じることがあり、いやいやながら読み続けている。村上はそういうイヤな感じと気持ちを引かれる感じのブレンドが絶妙な人であって、だからあれだけ売れるのだろうなとは思う。

 

宮崎の作るものはアニメなので、そこに多くの救いがある。きれいな場面があればそれだけでほっとするし、ため息もつく。シシ神の泉の場面など、もうどうしようもなく素敵なのだが、ああいうのがあったら本当にこのあちこち故障のある体を直しに行きたいものだと思うし、ビジュアルな力、オーディオの力によって、見る側を「追い詰め過ぎない」ところがある。

 

サンにしても、私はそういう「癒し」を為す人がなぜそれだけ頑ななのか、という方向に考えてしまったのだけど、むしろ頑なな人間がなぜアシタカを癒そうとしたのか、と考えるべきだったのだな、と今では思う。

 

もともとこの映画は「ティーンエイジャー向け」だと宮崎は言っていて、その意味は「この映画が精神的に健康で丈夫な人のためのものではないですから、自分が十分に痛みを持っている人たちには、あれだけのアシタカとサンの描写で十分に彼らの痛みが通じると思ったからです」と言っている。

 

この言葉も実に衝撃的で、言われてみてはじめてこの映画全体にそこはかとなく漂っている「病のオーラ」みたいなものがそういうことだったのかと思わされた。宮崎は他のところでこの映画について「ひたすらスタッフを食いつぶして行く映画」であると言っているけれども、ある意味そういう病のオーラに照準を合わせることの無理やりさみたいなことを言っているんだなということも初めて合点が行った。

 

(その4)に続きます。

【『もののけ姫』再考:(その2)「生きろ。」というコピーの背後の深い絶望】

もののけ姫

【『もののけ姫』再考:(その2)「生きろ。」というコピーの背後の深い絶望】

 

(その1)からの続きです。

 

私はいろいろな物語を書きたいと思っている。しかし日本の過去の歴史を舞台にした物語を書きたいと思ったことがなくて、そういう意味でも『もののけ姫』をきちんと勉強しようという気持ちがなかった。

 

この「勉強」といういい方は、小澤征爾が自分の指揮する曲の譜面を読みこんでその曲の演奏の仕方を作っていく過程を「勉強」と表現しているのを読んで、それが素敵だなと思ったので、倣ってみたのだけど、もっともっと過去の先行作品の「勉強」が必要だなとこのインタビューを読みながら思った。

 

エヴァンゲリオン」をもう一度見るのはきつそうだが、部分的には気になるところを見返して見るのもプラスになるかもしれない。


もののけ姫』のおおもとになるアイディアを問われて宮崎はこういうふうに応えている。

 

「それともう一つは、人間が人間の存在に疑問を持ち始めたこの時代に、そうした疑問が大人や哲学者の問題じゃなくて、子供たちの中にも本能的に広がっているのを感じて、自分はその疑問についてどう考えているのか答えなければならないと思ったからです。この映画を作った一番の理由は、日本の子どもたちが「どうして生きなきゃいけないんだ」という疑問を持っていると感じたからです。」

 

なるほど、と思う。この宮崎の思いはこの映画のポスターに書かれたコピー、「生きろ。」につながるわけだ。

 

もののけ姫』が作られた90年代後半という時代は『新世紀エヴァンゲリオン』もオンエアされ、阪神大震災が発生し、オウム事件が引き起こされ、酒鬼薔薇事件=バモイドオキ神もあった。人々が人間というものはこういうものだと素朴に信じていた多くの部分が、さまざまな面から崩壊していって、ある人たちにとっては破滅の縁に立たされた時期だったと思う。

 

それは実は私自身にとってもそうだった。もう毎日が生きるか死ぬか、やっとの思いでただ生きて働いていた時期だった。

 

あの当時、私は宮崎駿という人の作品に、いま思うとずいぶん浅いところで(つまりその戦後民主主義性に対して)反発を持っていたために、「生きろ。」というコピーも鼻で笑ってしまっていたところがあった。

 

しかし、私から見て深いところで生きていると感じられる人たちの何人かがこの映画を見て深い感銘ないし衝撃を受けていて、いつか宮崎駿を見るならば『もののけ姫』、と思っていた作品ではあったのだ。

 

言われてみれば当たり前なのだけれど、「生きろ。」という答えの前には「なぜ生きなければならないんだ、生きていたくない」という絶望があるはずなのだ。そして私は、簡単にいえばその絶望を直視したくなかったのだと思う。直視して、そしてその次の日に平気な顔をして出勤する自信が皆無だったからだ。だから何もかも、そういう「絶望を直視する」ことになりそうなものは、完全に拒絶していた。

 

そうだなあ、そういう状況も思いだしてくる。私は結局そういう状況を自分の意地だけで乗り切った、というかもちろん周りで援助してくれる人はいないわけではなかったけれども、自分のその時の感じとしてはそういう援助も溺れる者のつかむ藁であって、誰のどういう援助であったのかとかは十分認識できていなかったりしたのだった。

 

(その3)に続きます。

『もののけ姫』再考:(その1)正当に評価されにくい宮崎作品

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【『もののけ姫』再考:(その1)正当に評価されにくい宮崎作品 】

もののけ姫』はジブリ映画で私が最初に見たものなのだけど、最初だけによくわからなくて、イヤにイメージの像の結びにくい複雑な映画だなと思った覚えがある。そういえば借りたDVDが途中で画像がおかしくなる個所があったし、見たのも大画面のテレビではなくほとんどPCで見たので、もう一度見直した方がいいかもしれないと思った。もちろん印象に残った場面はたくさんあったが、内容を読みこめたかと言えばほとんど読みこめてなかったなとこのインタビューを読みながら思った。わかる、とか感じられる、ということに関しては『千と千尋の神隠し』の方が上だったので、『千と千尋』は何度も見なおしてほとんどの場面は覚えてしまったくらいなのだけど、『もののけ姫』は太古の森のように、記憶が錯綜している。

だいたいこの映画は、繰り返して見るには重すぎる部分があって、あまり直視するのを避けていたようなところがあったのだけど、むしろ本当に宮崎駿が行くところまで行ってしまったのはこの『もののけ姫』だったのだなとインタビューを読みながら思った。それはその前の時期に公開され、同じ時期にブームの絶頂を迎えた庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』が実に行くところまで行ってしまった映画であったのとシンクロしているように思われる。

エヴァンゲリオン』はテレビ版の驚きの結末をはじめ、劇場公開版や新劇場版など本人もまたあらたな制作を続けているけれども、その異様に突き詰めたストーリーのその先の破綻からさまざまなものを生みだす母胎になった。『もののけ姫』はそのような語られ方はしていないけれども、これは実はものすごいものを生み出そうとしているのではないかと思う。というより、この映画はまだ正当に語られていないのではないかとさえ思った。

正当に語られていないと言えば、おそらくは宮崎監督の多くの作品がそうなのかもしれない。『千と千尋』はずいぶん多くの言説があって私もいろいろな感じたことを書いていたりするけれども、たぶんこの映画は批評が書きやすい映画なのだ。しかし彼の作品はそんなサービスに満ちたものばかりではなく、もう理解を拒絶しているようなものがあったりする。

たとえば、2004年に公開された『ハウルの動く城』なども本当はかなり読まなければいけないところがあるのではないかという気がする。考えてみれば2001年の同時多発テロの後の最初の宮崎監督作品が、単純なラブロマンスであるはずはないのであって、何を言おうとしているのかまだ本当には読み取れてないとは思うのだけど、ハウルの評価について宮崎が怒っているというのを読むと、みんな読めてないんだろうなあと思う。

(その2)に続きます。