私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

「千と千尋の神隠し」はどんなふうに生まれたか:スタジオジブリの広報誌「熱風」を読んで

スタジオジブリの広報誌、「熱風」をご存知だろうか。私の周りではツイッターのタイムラインも含めてほとんど話題に上がって来ないのであまり知られていないのではないかと思うが、広報誌なので丸善ジュンク堂紀伊国屋書店など、ジブリ関連書が常設されている大型書店で無料で手に入れることが出来る。ただ、広報誌の中ではかなり人気があるようで、棚に置かれると日を置かずしてなくなることが多い。私も最初は棚を狙っていたのだが、2012年の初め頃から定期購読するようになった。

定期購読は年間2000円と言う費用はかかるが、内容からしたらかなり安い。ときどき思いがけなく心に残る記事があるので、もう4年以上取り続けている。

例えば、先日届いた6月号の特集は「日本人と生活革命」で、冒頭の24ページのインタビューが上野千鶴子さん。私の場合、この方の文章はこういうところで出て来ないと読もうなんて(ほぼ)絶対思わないので、世の中を狭くしないためにも役立つ。宮崎さんをはじめ、ジブリの方々は主張としては左なんだけど、とても穏やかな生の感覚というか、そういうものがその背後に流れていて、掲載されている文章も読んでいて静かに心を動かされる、というようなものが多い。

その中で、2014年の10月から連載が続いているのが「プロデューサー奥田誠治が語る「もうひとつのジブリ史」。休載の月もあるので、2016年6月号が第18回になっている。奥田さんは、日本テレビのプロデューサーとしてジブリ映画の担当を30年間続けたという方で、宮崎監督とも家族ぐるみの付き合いを続けているという方だ。

 

千と千尋の神隠し [DVD]

 

6月号では、「千と千尋の神隠し」がどのように制作されたか、ということに触れられている。宮崎さんは奥田さんに「千晶の映画をやろうか」と言ったのだそうだ。千晶とは、奥田さんの娘の名前である。

奥田さんの娘の千晶ちゃんと、「江戸東京たてもの園」を舞台にする、ということからこの映画はスタートしたのだそうだ。そして、その途中で「教育上よくない」という理由で主人公の名を「千晶」から「千尋」に変えたのだというのだ。

詳しくは本誌を読んでいただけば良いのだけど、私が一番印象に残ったくだりを書いておきたい。

奥田さんが四歳くらいのときの娘の千晶ちゃんと宮崎監督の山小屋を訪れた際、千晶ちゃんが靴を片方川に落として、奥田さん、宮崎さん、それに鈴木敏夫さんが慌てて追いかけて、必死になって拾ったというエピソードがあり、宮崎さんはそのあまりに小さな出来事から、あの日本で最も興行成績を上げ、アカデミー賞まで取った映画を発想したというのだ。あの、千尋が小さい時に溺れて、ハクに助けられた、あの場面である。あの場面から、すべては始まったのだ。改めて天才とはどういうものかを思い知らされたように思った。

付け加えると、この作品では千晶ちゃんが千尋のモデルになっているだけでなく、父親の奥田さんも千尋パパのモデルになっているという。あの乱暴な運転の仕方、あのダイナミックなものの食べ方は、奥田さんをモデルにしているのだそうだ。こういう話はとても面白いと思う。

千晶さんはもう成人し、社会人として働いているが、「彼女は迷ったり悩んだりするたびに、「千と千尋」を見て、メッセージを受け取って来たと言います。今回、そのことを知って、僕はびっくりしてしまいました。」と奥田さんはいう。これを読んで、本当にいい話だなと思った。

私は読み落としていたのだけど、「熱風」の5月号には、千晶さんの「証言」が10ページに渡って掲載されていたのだ。今読んで、これもとても面白かった。千晶さんは、本当に千尋みたいにおっとりしていて、一生懸命な人。「自分が千尋のモデルと言われてもピンと来ない」と言っている。まさに、千尋ってそういう感じの人だなと思う。

宮崎さんは、「山小屋に来る10歳の小さな友人たちのために作った映画」だと語っていたけど、その「友人」がこの作品をどんなふうに受け取っていたのかがよくわかって、とても素晴らしいと思った。

確かに、良い児童文学というのはそのように作られるのだと。

ジブリ作品とその背景について関心のある方には、この広報誌はお勧め。新しいジブリ作品がなかなか公開されなくてじれったく思っている人にも、こういうものを読んで世界を広げてもらうのもいいんじゃないかという気がする。

スタジオジブリの『思い出のマーニー』感想続きです。この映画を必要とする人に伝わりますように。

思い出のマーニー ビジュアルガイド

 

スタジオジブリの新作映画米林昌宏監督の『思い出のマーニー』感想続きです。

この映画については昨日感想を書いたのですが、そのあといろいろネットで掲載されている感想を読んだり、自分でも何冊か本を買って制作サイドの話などを読んだりして、(映画を見たあとでもすぐパンフレットとサントラの2枚組CDを買ったのですが、そのあと特集されていた「アニメージュ」と、「思い出のマーニー ビジュアルガイドブック」、「ストーリーガイドブック」「カードブック」まで買ってしまいました
。笑)また新たにいろいろなことを思ったのでちょっと書きたいと思います。

この話はいったいどんな話なのか、という観点でいろいろ考えてみると、まあ、いろいろな見方が出来ると思います。特に杏奈とマーニーとの関係について。

杏奈にマーニーがどうしてすぐ『特別の』存在になるのか。それは、マーニーが美しい子だから、神秘的だから、それに引かれたということはもちろんあると思いますけれども、あの映画の中ではあの二人はものすごく身体的接触が多いのですね。

もともと杏奈は、人に接近されることを警戒し、嫌がる子ですよね。最初の場面で絵を描いていて、それを体育教師みたいな美術教師に見せろと言われて、すごく思い切ってスケッチブックを渡そうとしたら騒ぎが起こってそれっきりになって、おそらくそんな些細なショックで発作を起こして倒れたりする。養母の頼子の心配も鬱陶しいし、大岩さんのおばさんの親切も「人のうち」の感じ。馴れ馴れしく近づいてくる信子には、「ほっといてよこの太っちょぶた!」何て言ってしまったりする。

その杏奈が、慣れないボートをこいでひっくり返りそうになったということもあるのだろうけど、美しいマーニーを見て目を奪われ、倒れそうになって手を取られ、隠れなきゃ、と手をつないだまま一緒に走り、茂みの中に寄り添って隠れる。もうあっという間にマーニーのぬくもりの中に取り込まれているんですね。

これは「ビジュアルガイドブック」で制作の西村義明さん(高畑勲監督の「かぐや姫の物語」の制作もやりながらこちらもやっていたそうです)が言っているのですが、

「杏奈に取ってマーニーというのは、実際に存在するんです。それをどう感じさせるかが重要だと。そこは麻呂さん(米林監督)も僕もこだわったところです。杏奈がマーニーに触れる瞬間、その肉感性を大事にしないと、この映画は多分どうにもならない。」

これを読んで、それは本当になるほどと思いました。昨日の感想にも書きましたが、マーニーというのは本当に「肉感的」な部分を持った存在なのですよね。本当に匂いがしてきそうなくらい。(これはプロデューサーの鈴木敏夫さんがマーニーを「これまでジブリで誰も試みなかった官能性のあるキャラクター」だと言っていてなるほど官能性という言葉もいいなあと思ったのですが)その官能性、肉感性というのが何に由来しているのか、というのが、米林監督の絵の力だけで出ているならすごいなと思ったのですけれども、こういう実は最初からすごく身体的接触が多いということに関わってくるのだと思ったのです。

人との接近、接触を怖がる、それは「自分に自信がない」、ないしは「自分が嫌いな」人にはよくあることですよね。特に子供には。だからその部分でそれまでの杏奈に同化していればしているほど、このマーニーの肉感性、息づかい、肌触り、ぬくもり、つまりは官能性のようなものまで、強く感じることが出来る、ないしは感じてしまうのではないか、と思ったのでした。

そう、初めて(もちろん本当は初めてじゃない、子供の頃に全くそういう経験がないわけではないにしても)そこに体温のある素敵な存在を感じたら、それは「特別の存在」になってしまうに決まっているわけです。かたくなな杏奈の中に、マーニーと秘密を共有できる喜びや、マーニーが和彦のことばかりいうことへの軽い嫉妬、裏切られて辛い気持ち、そして許してと言われてすべてを許すその愛、そんな爆発的な感情を目覚めさせていくすべてのスタートは、その身体的接触の暖かさ、確かさにあったのだろうと思うのです。

そういう意味では、マーニーの肉感性・官能性というのを感じるのは、私や鈴木プロデューサーが男性だからということだけではないのではないかと思います。からだを堅く閉ざしているけれども、本当はそういうものに飢餓状態にあり、そういうものが解放される瞬間を求めていた、そういう経験のある人なら、それは感じられるのではないかと思いました。

もし最初の出会いでそういう身体的な解放がなかったら、あの怖そうで無口な十一が親切にボートに乗せてくれたとしても、抵抗なく乗ることが出来ただろうか、ということも思ったのですね。あれはある意味象徴的な出来事、三途の川の渡し守と言ったら変ですが、あの世とこの世の間を往復することが出来る、ある種そういう力を持った存在としてみることも出来ますよね。

ということで話がちょっとそういう方面に行きましたが、もう一つのポイントは、マーニーの神秘性、というところにもありますね。さんざん「幽霊屋敷」と脅かされた「湿めっ地屋敷」や「嵐の夜の朽ち果てたサイロ」、ボーっとしていると潮が満ちてきて歩いて帰れなくなってしまう、ないしは潮が引いてくるとボートでは行き来できなくなってしまう、そういう境界的な湿地という場所。そういうところに忽然と現れるマーニーという存在ですから、それは霊的な存在であってもおかしくない。私はどちらかと言うとマーニーの神秘性よりも肉感性の方に強く引かれたので、マーニーのことを「私が作り出した幻」だと杏奈が彩香にかたるところがちょっと意外だったのですが、見る人によってはこの神秘性の方に強く引かれるかもしれません。

これについてはやはりビジュアルガイドで美術監督種田陽平さんがインタビューに答え(ちょっと私がまとめています)、

「思い出のマーニー」に描かれた世界がすごく新鮮に感じました。ちょっと怖くて…。どちらかと言えば「少し毒がある」みたいなものが好きということもあって、「かなりいいなあ」と思ってしまったんですね。その毒というのは、マーニーが危ない存在として描かれているところ、要するに、近寄ってはいけないと思いつつも惹かれてしまう、そういう存在として描かれていると感じたんです。牡丹灯籠や四谷怪談の幽霊のように、一線を越えるとなかなか戻れない、そういう怖さがあると感じました。現実の過酷さが物語の裏に張り付いているような雰囲気があるんです。」

と答えています。私はさしてその神秘性というところは意識しなかった、と言うか、まあ以前書いたメルヘンかファンタジーかと言うとメルヘンの世界の住人臭いところがあるので、そのくらいのことは起こってもいいだろう的な感じだったのですけれども、でもやはりその神秘性もまた、彼女の魅力の一つであることは確かですよね。確かに手で触れられる存在であるのに、でも手を離せば、彼女から少し意識を離せば消えてしまう、そんな不確かさもある。ものすごく実在感があるのに、現実感がない。大岩さんの家でのことを思い出そうとしたらマーニーが消えてしまう、というのは本当にそのあたりに引き裂かれた感じなんだなと思います。

その神秘性や肉感性を超え、人に愛されることを知り、人を愛することを知って、そして最後に「本当のこと」を知る。そのオチは昨日は書きませんでしたが、実はマーニーは杏奈に取ってすごく身近な人間だったのです。

そのことについてfujiponさんがこちらのブログで「この作品の終盤の「解説」からすると、マーニーというのは、「杏奈だけの守護霊」みたいな感じになってしまう」と書かれています。fujiponさんのこの感想は、ご自分を「杏奈と同じように世の中にフィットできない自分」として感じるだけでなく、『家のことはほったらかしのお父さん』としても意識してみてしまった、と言うすごく真摯なすばらしい感想だなあと思ったのですけれども、この部分については私は違うように思うなあ、と思ったのでした。

この話が言いたいのは、私は、「誰にでも特別の存在がある」「誰にでも無条件で受け入れてくれる、あるいは受け入れてくれた、つまり「丸ごと愛してくれた」誰かがいる」というメッセージなのではないかと思うのですよね。

それが杏奈に取ってはマーニーだった。つまり、誰にでもマーニーはいるんだよ、というメッセージなんだと、私は思ったわけです。

そんなこと言ったって、私にはマーニーは現実にはいない、という声ももちろん聞こえてきますが、多分そうじゃないんです。どこかにいる。でも気がつかないかもしれない。だってそうでしょう、それこそマーニーだって現実にいるのかいないのか分からない人なんだし、現実に存在したマーニーが娘の姿になって現れたなんて、信じていいんだかよくないんだか分からない話です。でも信じてみよう。一歩前に踏み出して、愛してくれる人を探してみよう、愛することが出来る人を探してみよう。その存在を信じてみよう。そして強く生きていってみよう。そう思ってほしい、そういうメッセージなのだと私には感じられたのでした。

これは、先に書いたプロデューサーの西村さんのインタビューの中でも語られています。この西村さんのインタビューは、高畑勲監督とのエピソードなど、面白いことが沢山含まれているのですが、これはまた別の機会に紹介するとして、この話に戻ると、この主人公の杏奈は物語のはじまりの時点で、大きな危機に直面しているわけです。

養母の頼子を始め、誰も信じられない。自分がいったい何ものなんだか分からない。「あんたはあんたのようにしかみえないから」。そんな言葉が、自分が空っぽだとしか感じられない杏奈の心にひどく突き刺さる。(この言葉、原作にもあるのですが、本当にキーになる、ある意味扉になる言葉ですね。逆に言えば、あんたはあんたとしてしか生きられない、あんたとして生きればいいんだという解放の言葉にもなるわけですから)そんなときにマーニーは、何も知らない(と杏奈は思っている)のに「あなたのことが大好き」と言ってくれる。ぬくもりで包んでくれる。それも、現実の好奇心で近寄って来る女の子たちみたいな下心なく。(そういうことには杏奈のような子は必要以上に敏感です)何も信じられなくなったときに救ってくれるものは何か。これは河合隼雄さんの言葉なのだそうですが、「子供たちの魂が病んだときにその病んだ魂を救えるのは一つは自然だし、もう一つは「丸ごとの愛」だ」と言っていて、まさに『思い出のマーニー』というのはそういう映画だと思いました。

自然と言っても何も、広大な草原だの高山のいい空気だのというステロタイプなものではなくて、この映画に描かれたような、何とも神秘的な湿地だったり、人のいうことを聞かない荒れ狂う天候だったりも含まれている、いやむしろ現実の自然というのはそういうバリエーションに満ちている。そういう自然と、何とも神秘的な、でもすごく親密なマーニーという存在から向けられる『丸ごとの愛』。それも無償の愛ではない、ということが大事だと西村さんは言っています。確かに、マーニーは自分の都合で和彦の方に行ってしまい、守ろうとした杏奈を見捨てて行ってしまう。マーニーの幼なじみだった久子の口から語られた現実に生きたマーニーも、多くのものを失い、そして結局は子供も孫もまともに育てられなかった悲しい存在であったわけです。

そういう意味では、モーパッサンの『女の一生』をある意味たどっているともいえるわけですね。結婚も、親子関係も、結局は信じられない。いつ壊れるか分からない脆い絆。諸行無常と言ったら変だけど、形あるものはすべて過ぎ去っていくもの、と言う、『ナルニア国物語』のラストにも通じるキリスト教的な現世否定感の影も少し感じられます。

じゃあマーニーの人生には何もなかったのか。そんなことは絶対ないわけですね。

まあここからは半ば神秘的な、スピリチュアルな話になりますけれども、時空とか因果律を超えて、苦しんでいる杏奈に丸ごとの愛を伝えた。そしてその力で、杏奈は立ち直ることが出来た。それが出来たからこそ、マーニーは終始一貫してあんなに楽しげで、魅力的で、官能的な少女だったのだと思います。

だからこの映画は、希望を持とう、信じてみよう、自分には何か出来ることがある、と言う映画でもあるということが出来るのだろうと思います。

まあ長々と書いてきましたが、こう書いてみると、やはりこの映画は見る人を選ぶ映画かもしれないなと思います。ジブリ映画と言うと、とにかく見る人に元気を与える、前向きになれる、リアルが充実している人たちが見て楽しい映画、という印象がありますが、この映画はむしろ今元気になれない、そんな人たちに取って強く訴えかけられるものがある映画であるように思いました。

そんな人に、届けばいいなと思います。私はこの映画がとても好きです。

 

スタジオジブリの新作映画、米林宏昌監督の『思い出のマーニー』を見ました!とてもよい映画でした!

アニメージュ 2014年 08月号

スタジオジブリの新作映画、米林宏昌監督の『思い出のマーニー』を見ました!

7月末から公開になっていた映画『思い出のマーニー』。昨日ようやく見に行くことが出来ました。とてもよい映画でした。

以下、内容についても触れていますので、気になる方はご注意ください。ただ、物語の最後の種明かしについては書いていませんので、それを知りたい方もどうぞあしからず。

舞台は北海道。理由あって「おばさん」=頼子の家で育てられている中学生の少女・杏奈。周りに打ち解けられないかたくなな性格で、学校でもひとりぼっち。また、からだが弱くときどきぜんそくの発作を起こしてしまいます。繊細で、絵が上手なのですが、周りに心の中を打ち明けることが出来ません。先生にスケッチした絵を見せろと言われて勇気を出して見せようとしたのに別のことが起こってそのままになったり、「この世の目に見えない魔法の輪」からはじき出されて、「外側」にいる、と思っています。そんな杏奈を「おばさん」はとても心配しているのですが、それすらも杏奈は「本当の気持ちじゃない、鬱陶しいだけ」と思っています。

そんな少女の杏奈が転地療養のために道東の海辺の湿地のある入り江の村の親戚に預けられることになります。特急が道東の広い景色の中を進んでいき、ローカル線の小さな駅で降りて広がる風景が素晴らしいです。その風景の広がりと、沈んだ杏奈の表情の対比が、杏奈の心の暗さをよく表していると思います。

私はこの作品は途中まで原作で読んでいたので、つい原作ではこうだった、というようなことを考えてしまったのですが、原作ではロンドンに住んでいる少女アンナが海辺の街に転地することになっているのですね。特に絵が上手いということもないので、絵の中に自分の見た物を表現するという杏奈の特性は、米林監督のオリジナルということになります。

親戚の大岩夫妻は夫が作務衣姿で細工仕事をしていて、奥さんは食べるのが好きなおばさん、という感じの暖かい人たちですが、杏奈はおばさんの親切も時に鬱陶しく感じます。この大岩夫妻の家もありそうでないいい感じの家ですし、杏奈の泊まることになるもともとは彼らの娘の部屋も、すごくセンスがいい感じです。

頼子は心配性で、きちんと杏奈に報告してもらうために、何十枚もはがきを持たせていて、そういうことが杏奈の負担になるのですが、杏奈はとにかく形式的にでも通信を書いて、はがきを出しにいくくらいの律儀さはあります。郵便局に行く、というと大岩のおじさんは「駐車場の方からいけば近道があるよ」と教えてくれます。あんなは言われた通りに行くと「ちかみち」と看板が下がった草ぼうぼうの道があり、杏奈は草をかき分けて村への道を進んでいきます。

この「ちかみち」が村への道であると同時に、異界への入り口でもある、という感じが面白いなと思いました。

杏奈が小さな郵便局の前のポストではがきを入れると、大柄な少女と教育ママ的なおばさんが話をしながら歩いていて、少女が自分の方に関心を向けるのを見て杏奈はさっと道をそれ、草むらの中を入り江に降りていきます。あの「関わりたくない」という感じ、すごく良くわかります。

入り江に降りてみるとそこは湿地で、浅い海が広がっています。そしてその向こうには、古ぼけた、でも雰囲気のある洋館が建っていたのでした。杏奈は、「私あの家、見たことある」と思います。そして湿地の中を歩いて渡り、屋敷につくと家の中をのぞいたのですが、誰も住んでいません。この辺りの雄大な中にも叙情的な美しい風景が、とても上手だなと思いました。

杏奈はそこで、二階の青い窓の中に、奇麗な金髪を櫛で乱暴にとかれている、少女の幻を見ます。

気がつくと、潮が満ちてきていて、その屋敷からは帰れなくなってしまっていました。杏奈は途方に暮れます。「どうしよう…」すると、入り江の向こうからむすっとした男・十一が船をこいできて、杏奈を乗せてくれ、村まで届けてくれたのでした。

ストーリーを描写していくときりがないのですが、いろいろと印象に残った場面とその印象をかいてみます。

大柄な少女・信子は図々しいボス的な感じの少女なのですが、信子もその母親のおばさんも大岩さんのところに少女が来たということに興味を抱き、何かとつついて来るのが杏奈には鬱陶しくてたまりません。大岩さんにいわれるままに信子たちと浴衣を着て村の七夕祭りに出かけたときに、杏奈の癇癪が爆発します。何かとおせっかいな、自分を面白がっているだけのくせに親切なフリをして言葉をかけてくる(それに攻撃的なものを感じるのは多分に杏奈の被害妄想も混じっているわけですが、その見方自体がそんなに間違っているわけでもない、大人ならそれを適当にあしらえるけれども子供だからそのあしらい方が分からないということなのですが)信子に対し、「太っちょ豚!」と言ってしまいます。すると信子は「どうしてあんたがそういう顔をしているか分かった。でも「あんたはあんたのようにしかみえない」からね」と言います。

これが原作でもすごく印象に残るセリフなのですが、「あんたはあんたのようにしか見えない」。自分が嫌いな少女には、すごく刺さるセリフですね。そしてこの場面で信子が杏奈の目を覗き込み、「目がとてもきれい(=外人みたい)」というのが、あとでの伏線にもなってるんだなと思いました。

杏奈はあの入り江に走っていくと、そこにはボートがありました。杏奈はそれに乗り、慣れない手つきで「湿めっ地屋敷」に向かってこいでいくと、中から金髪の少女が走り出てきて、ボートを止め、ロープをもやってくれます。それがマーニーでした。

マーニーはすごくファンタジックな存在なのですが、すごく肉感的な(と言ってもなんというか育ちのいい、活発で、上品な少女の)存在感があります。なんというか、アップになって上からこちらを見ている場面では、本当に少女の匂いまで感じられるように思い、すごくボーっとするような感じがありました。

そんなマーニーと一緒の時間を過ごした杏奈は、少しずつ心を開いて、笑顔さえ出てきます。杏奈とマーニーは、お互いにお互いのことを秘密にする、と約束します。

マーニーの出て来る場面は本当にどれも美しく、入り江の中で二人でボートに乗ってその向こうに月が映っている場面もそうですし、この入り江や草原の風景のひろびろとした感じは、やはり映画館で見る映画でしか感じられないものだなとしみじみと思いました。

一緒に時間を過ごす中で、マーニーは杏奈に「今まであったどんな女の子より好き」といい、杏奈は「今までにあった誰よりも好き」と言います。

あるとき、湿っ地屋敷に行くと工事が始まっていて、新しい住人がすみ始めていました。そこで出くわしたまんまるな赤いメガネをかけた少女・彩香(さやか)は、杏奈のことを「マーニー」だと勘違いします。「マーニーじゃない」という杏奈に首を傾げながら、自分の部屋=マーニーの部屋に杏奈を招き入れ、マーニーの日記を見せてくれるのでした。それはとてもぼろぼろになっていて、途中から破られていたのでした。

とても印象に残ったのはサイロの場面。これは活発な明るい上品な、つまりなんでも持っているように見える(それに対して杏奈は軽い嫉妬の気持ちを持っています)マーニーの恐怖の象徴でした。この暗いサイロに無理矢理連れて行かれるという意地悪を「ねえや」たちにされたことを聞いて腹を立てた杏奈は、マーニーの恐怖を取り除いてやろうと一緒にサイロへ行くのですが、折悪しく嵐になってしまい、杏奈は恐怖に震えるマーニーを一生懸命守ろうとします。しかし、なぜか幼なじみの少年・和彦が迎えにきてマーニーを連れて行ってしまい、杏奈は一人になってしまいます。このサイロの中の嵐の中の暗い恐ろしい感じは、すごく印象に残りました。マーニーの心の中に抱えていた暗い部分、両親に放っておかれ使用人であるばあやとねえやにいじめられていたこと、がすごく象徴的に表現されていたと思います。

一方、破られた日記の切れ端をみつけた彩香はそこにサイロの記述があるのを読んで杏奈がそこにいるのではないかと思い、兄と探しにいって、倒れている杏奈を発見します。杏奈はひどい熱を出して寝込んでしまいます。

そして最も印象に残ったのはマーニーと杏奈の別れの場面ですね。

杏奈はマーニーに「マーニー!どうして私を置いていってしまったの?どうして私を裏切ったの!?」と叫びます。マーニーは杏奈に「杏奈…… 私あなたにさよならしなければならないの。だからねえ杏奈、お願い。許してくれるって言って…」と言います。マーニーと杏奈の出会いはある種の幻想、というかむしろスピリチュアルとでもいうべき出来事なので、マーニーが自分を守ろうとした杏奈よりも自分を連れ出してくれる和彦を取った、というのもある種の幻想なのですが、これはパンフレットを読んでなるほどと思ったのですがマーニーの生きていた時代には「結婚」というかたちでしか湿っ地屋敷を出て行く手段がなかった、ということの比喩であるようです。

でも、杏奈の論理からいえば、それはもちろん、許せない、一方的な、自分をないがしろにする行為に違いありません。しかし杏奈はいいます。「もちろんよ!許してあげる!あなたが好きよ!マーニー!決してあなたを忘れないわ!ずっと忘れないわ!永久に!」と。

杏奈はマーニーを許してしまいます。なぜか。好きだからです。愛してしまったからです。そこで初めて、杏奈は自分の肯定的な感情をストレートに相手にぶつけることが出来たのです。どんなにひどい(ひどく見える)裏切りでも、愛しているから許すことが出来る。そんなことが人にはあるんだ。それを知ったことが、杏奈の大きな成長だったわけですね。

物語の種明かしは映画の終盤に、湿っ地屋敷の絵を描いている上品な老いた女性、久子によって語られますが、この点についてはぜひ映画を見ていただきたいと思います。私は原作を読みましたが途中まで、杏奈とマーニーが出会って秘密の時間を過ごし始めるところまでしか読んでいなかったので、結末はかなり意外でした。でも映画に集中して見ているとある時点でけっこう察することが出来るかもしれません。

また、杏奈がそんなにもかたくなであった理由も語られるのですが、この理由は多分人によって感じ方が違うだろうなとは思いました。分かることは分かるのですが、そのあたりは特に「思春期」というものをその人がどれだけ心の中に持っているか、ということに関わって来るのかもしれません。まさに思春期にある中学生の人たちに取っては、痛いほど分かるかもしれませんね。

最後は杏奈は元気になって、札幌に帰っていきます。かたくなな部分が解放され、自由な感性が解き放たれた杏奈。頼子をお母さんと呼ぶことも、信子に謝ることさえも出来るようになります。「友達?」と聞かれても「どうだろうね」くらいにいえる「強さ」のようなものも身につけていて、それはそれで成長なんだよな、と思います。

ラストシーンで、仲良くなったのか彩香がちゃっかりと十一の舟に乗っていて、札幌に帰っていく杏奈に二人で手を振っているのがなんかおかしかったです。

細かい場面で書くべきことは本当に沢山あるのですが、またそのあたりは機会を改めて書ければと思います。

本当に美しい映画でした。宮崎監督が長編を引退しての第一作ということで、スタジオジブリ自体でもすごく力が入った作品だったのだろうなと思います。宮崎監督の作品にある、ある種の「えぐさ」のようなものはないのですが、すごく上品で上質で、ジブリの「遺産」のようなものは十分温存されているように感じました。

子供に見せたい、本当に成長の糧になるような、そして映像的にも酔うことの出来る、質の高いアニメというものの必要性というのは、これからも変わらないと思います。米林監督やスタジオジブリは、そういう作品を作っていく、十分な力を持っていると思いますし、これからもこういう方向で作品を作っていってくれたらいいな、と思います。もちろんどういう方向へ行くかは分からないんですけどね。

スタジオジブリの今後の活動に、これからも注目していきたいと思います!

スタジオジブリの最新BD、『千と千尋の神隠し』を見ました!赤くない素晴らしい画質で感動しました!

千と千尋の神隠し [Blu-ray]

スタジオジブリの最新BD、『千と千尋の神隠し』を見ました!

現在、映画館では、スタジオジブリの最新作、『思い出のマーニー』を上映中ですね。これはまだ見ていないのですが、ブルーレイディスクの新作として、『千と千尋の神隠し』が7月16日に発売されました。一方、宮崎監督の全11作品、『ルパン3世 カリオストロの城』から『風立ちぬ』までを収めたBD作品集にも、この『千と千尋』は収められています。ですから、『千と千尋』をBDで見るためにはこの二つがあるわけです。

BD-boxと言うのにも魅かれるわけですが(笑)、私はアメブロの『好きなジブリ作品は?』と言うブログネタを書いていたときに『千と千尋』のBDの発売を知りすぐ注文したので、木曜日でしたかに届いたわけです。時間がなくてなかなか見られなかったのですが、昨夜少しだけ見ようと思って夜中に見始め、結局最後まで見てしまいました。

千と千尋』はもともと宮崎作品でも一番好きなものの一つなのですが、改めて見直してみて、と言うだけでなく、BDの圧倒的な画像のキレイさにすごく感動してしまいました。

私はもともとリアルタイムでは映画を見ていないので、初めて見たのがレンタルDVDになるわけですね。もちろんDVDで、小さい画面で見てもこの作品のよさは十分分かるのですが、このDVDは発売されたときに「画面が赤っぽい」と言う評判がネットで立っていました。私は映画を見ていないのでそれは良くわからなかったのですが、確かに全体に赤っぽい印象の映画だなあとは思っていました。

ということもあり、せっかく好きな作品なのでDVDを買うのではなくBDが出るまで待とうと思っていたわけです。ですから逆にいえば待望のBDが出たことを知ったので、すぐに買ったのでした。

しかし、内容はと言えば、全く予想を裏切る素晴らしさで、とても感動してしまいました。

DVDとBDの画質の違いと言うものは、以前はあまり良くわからなかったのですが、昨年『進撃の巨人』のディスクを買っていたときに、最初はDVDで買っていて、途中で間違えてBDを買ってしまったら、その画質がDVDに比べて格段にいい、特に動きの場面がカクカクしなくなると言うことには驚いてしまって、それ以来かならす高くてもBDを買うことにしています。(ですから『進撃の巨人』のコレクションは3巻までDVDと言う中途半端なものになってしまったのですが)

ですからもちろん今回も、DVDよりは画質がいいだろうとは思っていましたけれども、ここまでよくなるとは思いませんでした。

本当に、ひとりひとりのキャラクターの輪郭線がすごくしっかり見えて、背景もくっきりとしています。細かいところがちゃんと見えないなあと言う残念さは『魔女の宅急便』のDVDを買ったときに感じていたので、そのストレスがないと言うことは本当に素晴らしいことだと思います。

私は『千と千尋』のアートアルバムも持っているのですが、このBDを止め絵にした(ポーズをした)ときの美しさは、アートアルバムの中の一ページ出来るくらいで、物語の最初の方、ハクと千尋が息を止めたまま橋を渡りきれないで物陰に走り込んだ時の、紫陽花を背景に二人で話している場面など、美しさに見とれてしまいます。

今回見て初めて気がついた場面もあり、例えばこの場面でハクが千尋の額に手を当てて「ボイラー室へ行って釜爺にここで働かせてくれと頼むんだ」と説明する場面で、額を手に当てることによってその場所のイメージを千尋に見せているんだと言うことを初めて気がつきました。そうなんですよね。いくらハクに説明されて他に手だてがなかったからと言って、ボイラー室に行く危険な道のりをどうしてあそこまで思い切っていくことが出来たのか、見ていて疑問を感じるところがあったので、今その場面を見せる演出に気がついて、そうだったのかと納得しました。

それに、はじめてDVDを見た時は千尋がすぐにぶうたれたり落ち込んだりするのがしょうがないなあとしか思ってなかったのですが、今見ると痩せっぽちの千尋がヒザを抱えてうずくまったり、こわごわ階段を降りていったりするのがすごく魅力的に見えました。千尋なりに怖いのを我慢し、勇気を振り絞ってやっていると言うことが、より鮮明な画像であるために、画像に気を取られずにその本質まで見えるというか、画質がいいということが映画やアニメと言う芸術にとっていかに大事なことかと言うことを改めて思わされました。

もともとジブリの演出、宮崎さんの演出はそういう感情表現について非常に抑制的なんですね。特に『千と千尋』についてそう思います。豚になるほど食べてしまう両親の食べっぷりの浅ましさとか、そういう批評的な見せ方の毒というものはあるのですが、一般のアニメのように感情をそのまま見せると言うことをしていない。それはそうですね、確かにこれだけ怖いこと、勇気を振り絞らなければならない場面の連続では、いちいち怖そうな顔をしていては話にならない。階段が壊れて駆け下りることになってしまう場面など、走る場面では千尋は両手を上げて走っていて、それがすごく子どもっぽく、千尋の幼さが表現されているのがいいなあと思います。

一方ハクの走り方は膝に手を置いて走る、まるで武士ややんごとない人、あるいは能狂言の舞台上の所作のような美しい動きです。このあたり、江戸時代の農民が逃げるときに両手を上げて走っている図であるとか、すごく研究されていると言うことが分かって面白いです。その辺りは『もののけ姫』の頃から特に顕著になっていると思います。考えてみれば、この2作はある意味、『宮崎版時代劇』なのですね。

あとすごく思ったのは、千尋が普段着から油屋(湯屋)での労働着である水干(ですよね)に着替えてから、すごくきりっとした印象になること。制服萌えという言葉がありますが、やはり「働く姿は美しい」と言うことでしょうか、覚悟を決めて働く幼い千尋の姿は、痛々しいと言うよりむしろ魅力的に見えます。

ストーリーの最初のヤマは湯婆婆に油屋で働くことを認めてもらうまでですね。なぜか最初から助けてくれるハクと別れたあと、どういう風に対応されるか分からない釜爺に話しかけ、つけつけしたリンに連れて行かれ、大根の化け物のようなオシラサマにかばわれて、湯婆婆のところへ行き、湯婆婆が坊が泣いているのに手を焼いているスキに何とか働かせてもらうことが出来る。『働かざるもの食うべからず』が鉄則のこの世界と言うものが、ここに再現されていると言うのが面白いなと思います。

この世界で生きる、生き残るためには働かなければならない、というのがまあ本当は私たちの生きているこの世界でもそうなわけですが、それが曖昧になっているために分かりにくくなっているところがある。ここはそういう世界なのだ、と言うことを無前提にひょい、と投げかけているところが宮崎さんの作品の特徴で、そうですね、宮崎さんの作品と言うのはつまり、「世界のありよう」を描くことがその中心にある、と言うことがいえるなと思いました。そのスケールの大きさが、他のアニメとは違うところで、逆にいえばそういう世界を作り出すことに成功したものだけが名作として生き残っているともいえるのだなと思います。

その一方で、釜爺のところで働かされているススワタリたちは、『となりのトトロ』にも出てきていて、宮崎アニメを見てきた人にとってはある意味懐かしい存在。子どもたちも、「あ、ススワタリだ!」と思ったことでしょう。良くわからないものの存在が続いて出てきている中で、日常的な存在ではないのに、親しみを感じさせるものが出て来ることで見ている人に何となくの安心感を与える。緊張してばかりでは疲れてしまいますし、また怖さやドキドキばかりが続くと心が堅くなってしまって新しいものが食べられなくなる感じがありますから、ここでそういうものを出すのはすごく上手いのだなと改めて思いました。リンがススワタリたちにこんぺいとうを撒いてやるところも鯉にえさをやっているみたいで、すごくキレイですね。

いちいちの場面で魅力的なところを上げていくときりがないのですが、(私はこの映画が本当に好きなんだと思います。というかBDで見て本当にそれを再認識しました。)この映画は午前1時から4時頃にかけて、やはり何かの精霊の力が働きそうな時間に見ると、その魅力がさらに高まるように思いました。私はどちらかと言うとこの映画はそういう世界を分かりやすくし過ぎているんじゃないかと言うことを公開の時から危惧していたのですが、昨夜見ていた時はむしろ、分かりやすいと言うよりは肌感覚のようなもので迫って来るところがあって、スピリチュアルな意味でもすごくよく出来た作品なのではないかと言うことを感じたのでした。

それから本編の魅力と言うのと直接関係はないのですが、字幕とか副音声で英語・フランス語・ドイツ語・フィンランド語・韓国語・北京語・広東語(中国語はいずれも繁体字フィンランド語は字幕なし)で見られると言うのも面白いなと思いました。フランス語で少し見たときに、ドラマの最初の方でお父さんが車で山道をぶっ飛ばす場面なんかが、ああこれは実は結構フランス映画の影響なんじゃないかと思ったりしたのでした。ハクと千尋が湯女たちの間をすり抜ける場面で着物の裾が風でめくれ上がるところなんかはマリリン・モンローの「7年目の浮気」ですしね。

だいぶ長くなり、また更新も遅くなってしまいましたが、『千と千尋の神隠し』BD、お好きな方には絶対イチオシだなと思ったのでした!

E・T・A・ホフマン(上田真而子訳)『くるみわりとネズミの王さま』(岩波少年文庫、2000)を読んだ。

クルミわりとネズミの王さま (岩波少年文庫)

 

E・T・A・ホフマン(上田真而子訳)『くるみわりとネズミの王さま』(岩波少年文庫、2000)を読んだ。

これは先日も書いたけれども、スタジオジブリの広報誌『熱風』7月号で取り上げられていたからで、それは長編映画から引退した宮崎駿の引退後初の仕事、「三鷹の森ジブリ美術館」における企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の特集の中で、だった。

もともと宮崎さんはバレエの『くるみ割り人形』のお話をもとに描かれたアリソン・ジェイさんの絵本(蜂飼耳訳)『くるみわりにんぎょう』(徳間書店、2012)を読んでこの話に興味を持ち、そしてホフマンの原作も読んでこの展示を企画し作ったのだという。

 

くるみわりにんぎょう

私はまだ残念ながらジブリ美術館の展示は見に行けていない(完全予約制で毎月10日に次の一月間の予約を取るようになっている。もう7月8月は完全に埋まっている。夏休みだから仕方がないんだろうけど)、というかジブリ美術館自体にまだ行ったことがないのだけど、『熱風』を読んでいろいろと興味を持った。というのは、この特集に文章(談話を含め)を寄せているのが宮崎監督自身、絵本を描いたアリソン・ジェイさん、ドイツ文学者の若松宣子さん(若松さんの解説でかなり興味を持った)、マンガ家で『風と木の詩』や『空が好き!』の作者である竹宮恵子さん、宮崎監督のインタビュー本を何冊も出している『ロッキン・オン』の渋谷陽一さん、それに『One Piece』の作者であるマンガ家の尾田栄一郎さんという豪華なメンバーなのだ。

 

舞姫(テレプシコーラ) (3) (MFコミックス―ダ・ヴィンチシリーズ)

くるみ割り人形』は、まあ、私のイメージとしてはチャイコフスキー作曲、プティバ振付のバレエだ。姪っ子たちのバレエの発表会を見に行った、その印象が一番強いかな。DVDを借りてきてロシアあたりのバレエ団のものを見た覚えもある。あとは、山岸凉子さんの『テレプシコーラ 舞姫』で主人公の六花がクララを踊る、その物語のなかのストーリーとして読んだもの、というイメージで、いずれにしても夢見がちな少女が一夜の素敵な夢の世界に行った、という以上の印象を持ってはいなかった。アリソン・ジェイさんの絵本も基本的にはそういうものだ。

しかし、この特集の中で語られているホフマンの原作は、どうもそういうものではない、という雰囲気が漂っていた。考えてみたらホフマンと言えば、19世紀前半の有名な幻想作家だ。そのホフマンが書いているのだから、考えてみたら一筋縄でいく作品であるはずがない。

まず宮崎さんの『くるみ割り』評。「この本、読んでいくと全然つじつまが合ってないんです。でもそれに対して、まるで原作者のホフマンが「きみ、何でつじつまがそんなに必要なんだね」と言ってる感じなんです。」と言ったり、「この話って頭がおかしくなるように書いてありますね。直訳したものを読んでいくと、もう口から出まかせ、いくらでも来るぞという感じで(笑)」と言ったりしています。宮崎さんが「頭がおかしくなる」というくらいだから、これは面白いぞ、と思ってしまう。

また尾田さんも、「原作は正直、読んでも理解できなかった。(笑)ぼく、自分で絵を描きながらお話を追ってみたんだけど、それでもだめだった。だから、宮崎さんはどうやって理解したんだろうと非常に興味を持ったんです。展示の内容を紹介するパネルに「わからん」と宮崎さんのコメントが書いてあって、すごく安心しました」と言っている。

この二人に共通するのは、アニメ作家でありマンガ家であること、つまり物語を「絵」でとらえる人、だということがあると思う。この作品は、読んでいるうちに現実の世界かと思っていたら異世界に行っていたり、人間だと思って読んでいたら人形だったりということがよくあるから、そうするといったいどこから人形になっちゃったんだろとか、どこからが夢の世界なんだろいうの絵が描けなくなって頭が混乱する、ということがよくあるのではないかと思った。

私はお話は必ずしも視覚的なイメージを再現しながら読むわけではないので、読んでいてそういうところに出くわすと、「あ、思ってたのと違ったのね」と思って修正するとそのまま続きを読む、という感じになるのだけど、絵をかいてしまった人はイメージの持って行き場がなくて四苦八苦する、ということはあるのかもしれないと思った。

まあつまり、確かにこの話はずいぶん途中で空間を捻じ曲げている感じがあるのだけど、それを含めてすごく面白いと私は思った。つじつまが合ってない、という感じは私はそんなにしないのだけど、現実の少年少女が異世界に行って、そこでいろいろな困難にぶつかり成長して帰って来る、というファンタジーの定型に慣れきっていると、こういう開かれたオチというか、最後は行ってしまったきり帰って来ない、というお話を読むと自分の中で気持ちの落とし所がなくなってしまって変な感じになる、ということはあるのだろうなとは思った。

そう、このストーリーの最大の特徴は、クルミわり人形と素晴らしい夢の世界に行ったマリーが一度現実の世界に帰って来たのだけど、その素晴らしさを誰にも分かってもらえなくて、結局再び夢の世界に行って夢の世界でクルミわり人形と結婚し、その世界の王と女王になるという「オチ」にあるのだと思う。

夢の世界と現実の世界は等価ではない、と私たちは思っているわけで、特に大人になると現実の世界の重さが身に沁みてきて、ファンタジーと言っても表面的な読み方になりがちで、現実の自分の存在が脅かされるような深いところまで降りて行ってしまうような読み方はあまりしなくなる人が多い、つまり日常の慰藉以上のものではないとこういう物語をとらえる人が多くなるように思う。

でも本来、物語というものはそんなチンケな安全なものではない。もっとやばいもので、下手をしたら現実に帰って来られなくなる可能性すら秘めた力の強いものであるわけだ。私も子供の頃、そういう物語をよく読んで、結構子ども心に戦慄を覚えた作品はよくあったけれども、いまでももっとも良く思いだすのは、「ナルニア国ものがたり」のシリーズだ。このストーリーは、主人公であるイギリスの少年少女たちが、別の世界にある「ナルニア」に不可抗力で行ってしまい、そしてある冒険をして現実世界に戻って来る、というのが基調になっている。ある意味安心して読める物語構造になっているわけだ。

 

さいごの戦い (カラー版 ナルニア国物語 7)

ところがシリーズ7冊目、最後の作品である『さいごの戦い』は違う。ナルニアは滅びてしまい、ナルニアに飛ばされたペヴェンシー家の兄弟たちも、現実の世界では死んでしまって、永遠に「真のナルニア」で生きることになるのだ。これは、作者であるルイスがある種の『神の国』として永遠の世界を描いているということなのだろうけど、小学生の時初めて読んだ時には文字通り戦慄した。

こんなに行く絵にも重層的に組み立てられてきた物語の世界に行った人たちが、帰って来ないなんて!と。

子どもにとって、「帰って来られない」というのはすごく不安なことだ。だから、それだけ、強く心に刻み込まれたのだと思う。今ではそれも一つの物語のパターンだと思っていて、でもやはりかなり強い構造の物語であることは間違いないと思う。ある種の呪いというか祈りというか、「ここよりもより素晴らしいここでない世界」への危険な憧れのようなものを感じるし、そしてそういう世界を身近に感じるという一つの才能に恵まれた人にとっては、どきどきするようなことであるわけだ。

考えてみると、私がそういう世界に憧れるようになったそもそものきっかけがこの「さいごの戦い」であった気がする。そして、そういう世界に自分の心が開かれるようになったのも、この物語に酔って「ここよりも素晴らしいどこか」の話を描きたくて仕方なくなった、ということであった気がする。

物語というものが、現実の世界に奉仕するためのものだ、という立場からすれば、それはとんでもないことであり、いかがわしいものであるということになる。現実と物語は、決して等価であってはならないからだ。ましてや物語が現実を凌駕するものであることは決して許されない。

しかし、その危険に踏み込んでいく人もいるわけで、ある意味自分はそういう人間なんだなと最近思うようになってきた。というか、もともとそうだったのを、この年になってようやく自覚してきたと言えばいいんだろう。

だから私にとって、このホフマンの原作は、とても面白いし何というか物語ってこういうものだしこうして描くものだよなあと読みながら何度も思った。現実よりも物語の方が面白いなら何も現実にこだわることはないんじゃないか、と思ってしまう。

もちろんそんなことを言ったって現実の世界に生身を持って生きている人間であることに変わりはないわけで、現実の世界に足場を築いて現実の風を浴びながら何とか生き延びていかなければ物語の世界に耽ることさえできなくなる。

ロマンとかメルヘンとかファンタジーとかをどう生きるかというのは、トライし甲斐のあるテーマだなと思う。

メルヘンとファンタジーの違いは、メルヘンの登場人物は異世界の存在に驚きを感じないが、ファンタジーでは最初戸惑いを感じていた登場人物たちが徐々にその世界に飛び込んで行く、と言うところが違うのだ、と言う若松宣子さんの指摘は面白かった。と言うことは、リアルと幻想(メルヘン)の間を行き来するのがファンタジーだ、と考えればいいのかもしれない。

私が思ったのは、自分自身の発想と言うのはどちらかというとメルヘンに近いなということ。であったときに、すぐ仲良くなったり不思議なことが起こっても驚くと言うよりそう言うものなんだと受け入れてしまう感じが自分にはあって、物語を書いていても、「こういうことが起こったら普通驚くよな」と思いながら、じゃあしょうがない、ここでこの子を驚かせよう、みたいな感じで不自然さをなくす努力をしている感じなので、なんというかそれ(驚かない)もありなんだなと思って、すごく世界が広がったというか許された感じを覚えた。

メルヘンの世界の住人は当然メルヘンの世界のルールに従って生きているわけで、驚くのが不自然なのだけど、それでは読者に違和感があって伝わらない、と言うのを、どの程度現実に引っ張ってくればいいのかいけないのか、そのへんのところはけっこう面白い問題なのだなと思ったのだった。

最後はちょっとまとまらなくなったが、この物語はとても面白かったし、こういうものを書いて行く上で、自分に取って凄く大事になることがいろいろあったように思ったのだった。

『One Piece』の尾田栄一郎さんと宮崎アニメと『くるみ割り人形』。

One Piece』の尾田栄一郎さんと宮崎アニメと『くるみ割り人形』。

三鷹の森ジブリ美術館『クルミわり人形とネズミの王さま展〜メルヘンのたからもの〜』をやっているそうです。(5月31日〜来年5月(予定))

 

私はスタジオジブリの広報誌「熱風」を定期購読しているのですが、(大手書店には置いてありますが、年間購読料2000円で自宅に郵送されて来るので確実です)7月号の特集はこの展示についてでした。

くるみわりにんぎょう

これは、昨年長編アニメ作品からの「引退」を表明した宮崎駿監督が精力的に取り組んだ展示で、アリソン・ジェイさんの絵本「くるみわりにんぎょう」(詩人の蜂飼耳さんの訳です)を宮崎さんが読んだことがきっかけになったそうなのですが、宮崎さん自身の絵もたくさんあるそうです。私はまだジブリ美術館には行ったことがありませんし、当然この展覧会も見ていないのですが、『熱風』に寄せられた『One Piece』の作者・尾田栄一郎さんの感想を読んで、ちょっとこのことについて書いてみたいと思ったのです。

特集で取り上げられているのは宮崎さん自身の談話、アリソン・ジェイさんのインタビューの他、ドイツ文学の翻訳家(このお話はもともとはドイツの幻想小説家・ホフマンの「クルミわり人形とネズミの王さま」が原作なのです)の若松宣子さんの解説、マンガ家竹宮恵子さん、音楽評論家の渋谷陽一さん(渋谷さんは宮崎さんへのインタビューを何度も行っていますね)、それに『One Piece』の尾田栄一郎さんの感想が掲載されています。

知りませんでしたが、尾田栄一郎さんは宮崎さんの大ファンなのだそうです。ですから宮崎さんが「アカデミー賞授賞式にも行かずに」準備していたこの展示を凄く楽しみにしていて、とても満足したそうです。

 

クルミわりとネズミの王さま (岩波少年文庫)

 

ホフマンの原作には「七つ頭のネズミの王さま」というのが出てくるそうなのですが、それがぬいぐるみで表現されている(!)という話が面白いですし、それが強そうではなくやわらかく表現されているのが「これだ!」という感じだったのだそうです。

宮崎さんも書いているのですが、ホフマンの原作は読んでも理解できない、つまり「つじつまがあってない」作品なのだそうです。(原作は読んでないので知りませんでしたが)それはこの原作は「連載マンガ」みたいなものだからだ、と書いているのが尾田さんらしいなと思いました。

私たちが子どもの頃(と言っても尾田さんは私より10歳以上下ですが)、マンガというものはつじつまが合ってないものでした。「キン肉マン」などはそのとき面白かったらいい、という感じで全然つじつまが合ってなかったのです。

 

一方、『One Piece』は恐ろしくつじつまが合っている。というか、何年も前に出て来たキャラクターが実はこういう存在だった、といって話の隙間を埋めながら話が展開して行く壮大な物語なんですね。私も最近の作品を読むようになってから、『進撃の巨人』なども「つじつまが合っている」からこそ、『作者の意図は何か』とか『この筋はこう展開するのではないか』などとみながネットで予想しているわけですが、いつからマンガというものはこういう『きちんとつじつまが合っている』ものになったのか、というのは不思議に思っていました。

尾田さんのこの文章を読んで知ったのは、尾田さん自身が、マンガ家になったときに、それまでのマンガはつじつまが合わなくても平気と言うものだったから、「きちんとつじつまを合わせた物語を作ってみたい」と思って書き始めたのが『One Piece』だった、ということです。

今はみんな口うるさくなって、矛盾をより細かく指摘する人が『偉い』という風潮が生まれたと尾田さんはいいますが、つまりは尾田さん自身が生み出した流れが今は主流になって、(そりゃ3億冊のヒットですからね)「マンガとはそう言うもの」になってしまったのだ、と尾田さんはいうわけです。

でも物語というものには本来、そんなルールはないはずなんだ、と尾田さんが言ってるのは新鮮でした。自分は一つの挑戦としてそれをやってみたかったのだけど、本来もっと自由でいいはずなんだと。例えばこのホフマンの作品は、そう言う自由な発想で書かれている、と尾田さんは言います。

宮崎さんの作品も、つじつまが合うという点では『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』を超えるものはない、と尾田さんは言います。もう『千と千尋の神隠し』以降はつじつまが合わなくてもいいから描きたいものは描く、という姿勢になっていると。だから『クルミわり人形とネズミの王さま』にあって「これでいいんだ!ドーン」って思ったのかな、と思ったのだそうです。(「ドーン」とか「どーん」というのはOne Pieceによく出て来る擬音です。)

 

ONE PIECE 72 (ジャンプコミックス)

 

尾田さんが『クルミわり人形』についているというのを知って、私がまず思い浮かべたのは、今連載が続いている『One Piece』のドレスローザ編に出てくる人形の「片足の兵隊さん」でした。片足であることをのぞけば、クルミわり人形とそっくりです。このクルミわり人形は実は物語中に出て来るレベッカという女の子のお父さんなのですが、そこに娘を持つ父親でもある尾田さんの親子関係、願望が投影されているのだそうです。もともと親子関係というものは、恥ずかしくて作中には描けなかったのが、はじめてニコ・ロビンと母親の関係で「実の親子」の関係を描いたのだそうです。

確かに、私も考古学者の島・オハラの話でロビンの母親が出て来たとき、「実の親子は初めてだな」と思いました。(設定上は、革命家ドラゴンが実は主人公ルフィの父、という設定はあるはずなのですが、この時点では明らかにされていません)それは、自分の中の親子のイメージが、両親と自分という関係から自分と妻と子供、という関係に変化したことの現れ、なのだそうです。そう言う話もとても面白く感じました。

尾田さんは本当に宮崎さんのファンらしく、とにかく宮崎さんの絵を見たい、もっともっと描いてほしい、と思っているんだそうです。「ちょっとした落書きだって、宮崎さんが描くと凄く雰囲気がいい。見ていてほっとするんです」と言われていて、それは本当に良くわかるなあと思いました。作家、特に絵を描く人の本当の才能のようなものは、むしろそう言うところに現れるんじゃないかな、と私も思います。

「クルミわり人形」、宮崎駿さん、尾田栄一郎さん。それぞれ名作であり、巨匠であり、大人気作家であるわけですが、そうやって受け継がれて行くもの、流れて行くものがあるんだなというのを見ていると、素敵な気持ちになります。

世の中は、そんなに悪いものでもないんだな、って。

 

『紅の豚』を観た。大空の深さが感じられる、大人の映画だった。

紅の豚 [DVD]

 

 

紅の豚』を見た。観終わった第一印象は、宮崎にしては珍しい「普通の映画」という感じ。リアリティというかヨーロッパ映画的な手触りの上に、ファンタジー性を盛っている。そのせいなのか、見終わった後の「印象」はかなり強い。波止場に止めた船、あるいは飛行艇に寄せる波の音が聞こえてきて、大空の深さが見える気がする。観終わった後に何か考えてしまう他の作品とは一線が画されている感じがする。

 

カサブランカ』のボギーみたいなせりふがいくつもあって、ヒロインのジーナは美人。声は加藤登紀子で、歌も歌っている。宮崎が豚にこだわっているのは、自らの何かの部分をこの動物が担っているということなのだと思う。宮崎は、たぶん自分が一番自然に描けるものを描いたのだと思う。ウィキペディアを見るとそういうものを描いてよかったのかどうかということについて悩んだようだったが。ポルコは宮崎自身のある種の理想像だろう。『カサブランカ』のパターンを使って、ボギーとバーグマンの役柄を入れ替え、ヒロインジーナが酒場を経営している。

 

一番いい場面は、飛行機雲に見えたのが、たくさんの飛行機の墓場だったというところだな。まさに雲の墓標。飛行機・飛行艇乗りの魂は大空の一番高いところに還っていく。天空にある魂の故郷。実写では表現しにくい場面だなと思う。「ここでは人生はあなたのお国よりももう少し複雑なの」とアメリカを揶揄しているけれども、実際にはヨーロッパを舞台にしたハリウッド映画的な感じもある。

 

脇役たち、空賊とか、もう一人のヒロイン・フィオとかは見事に宮崎アニメの登場人物で、その二つの合体でできている、大人のファンタジー。『崖の上のポニョ』のグランマンマーレが宮崎作品ではみたことのない美人さんだと思ったが、すでにここで出ていたのだなと思った。

 

大人向けの作品なので、物語の枠が一番緩やかで、縛りが弱い感じがする。どんなふうにでも想像自由な感じがするところがのびやかでいい。他のアニメもそうだが後日譚は描かないのであとが知りたいという気持ちが残り、映画への関心が持続する感じがする。

 

大人のアニメということで、やはり一作だけ特異な感じがするけれども、逆にこの地点があるから宮崎の世界の底の知れなさというか、奥深さを見ることが出来もするし、ああ、こういうものもつくるんだなあということでなんだか安心感もあるなと思った。

 

2010.10.24.