私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

『火垂るの墓』を見た。(その3)「不幸な恋人たち」のような少年と妹。

アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫)

 

(その2)からの続きです。

 

そういうわけで、私はこの主人公の少年に対して、自由であろうとして不幸フラグを次々と立て、それを次々に実現化して行ってしまう何ともやりきれない独りよがりの少年だと思わずにはいられなかったのだけど、それは周りと軋轢を起こしがちだった自分の少年時代とも重なったからだ。私は子供のころ早く大人になりたいと思っていたし、それは子どもというものが本当に不自由だと思っていたからだ。

 

しかし、ここで自由を求めて軛を断ってしまったら必ず不幸になる、という予感があり、大人になるまでは、と思って耐え忍んでいるという部分があった。だから私は大人になってから、本当に自分の力で生きることの幸せをかみしめたし、むしろそれだけで満足してしまうようなところもあったりした。

 

独りよがりだというのは妹に対する接し方にも表れていて、少年の妹への接しかたにはなんというかある意味恋人に接するような執着の仕方を感じたのだけど、それを妹への愛と言わずに執着という感じがしてしまうのは、この二人の関係が周りの人を幸せにしない感じがすごくしたからだ。

 

彼らが本当に楽しそうなとき、たとえばオルガンを弾いて「こいのぼり」を歌ったり、海辺ではしゃいだりしているとき、周りの人たちは彼らを見て楽しそうな顔はしない。むしろ「親戚の意地悪なおばさん」は腹を立てるし、海辺の親子連れも「何あれ?」という顔で見ている。彼らは仲良くすればするほど周りに疎まれる不幸な恋人たちのようなのだ。

 

こういう感じ、前にどこかで見たなあと思って思い出したのは『シド・アンド・ナンシー』だ。

 

セックス・ピストルズシド・ビシャスとその恋人、ナンシーの破滅的な恋愛を描いたこの作品は、ジャンキーの彼らがお互いにのめり込めばのめり込むほど不幸になっていく。雨の中でナンシーが母親にSOSの電話をかけるシーンは、『火垂るの墓』で、もうどうにもならなくなって医者の診察を受け、滋養をつけろと突き放されて「滋養なんて、どこにあるんですか!」と叫ぶシーンと重なる。できないからできないのに、できないことをやれと言われ、絶望するしかない。

 

この映画で一番悲しいけれども一番救いのある場面が妹・節子が兄にどんなにかわいがられても決して言わなかった一言、「おおきに」と言って息を引き取ってから、幻想の中で防空壕の前で一人で遊んでいる場面だとしたら、一番エロティシズムにあふれている場面は死んでしまった妹を柳行李の中にいれ、人形や大事にしていたものたちと一緒にして兄自らが一人で野辺で火をつけて燃やし、火葬にする場面だと思う。

 

まさにあの場面は愛――ここはこういうしかない――と死というもの、エロスとはタナトスのことなのだと納得せざるを得ない場面で、ここですべてが実質的には終わってしまう。

 

このあと神戸の駅で少年が行き倒れるのはもはや彼にとっての救いは死しかないからであり、まさに大団円が霊魂となった彼らが丘の上から「現代の繁栄する都市」を見下ろす場面で終わる。そこで初めて、見る者たちにこういう出来事が現代とつながっている時代に起こっていることを自覚させて物語は終わるのだ。

 

(その4)に続きます。

 

『火垂るの墓』を見た。(その2)「意地悪な親戚のおばさん」は本当に意地悪か。

火垂るの墓

 

(その1)からの続きです。

 

この映画は兄と妹の生と死を描いているわけだけど、この少年はすごく独りよがりな部分がある。親戚の家に厄介になっていて、母が死んだと知れるとごくつぶしのみなしごの面倒を見ているというふうに露骨に態度が変わり、結局はそれに我慢が出来なくなって二人で池(湖?)のそばの防空壕に引っ越してしまい、食べ物に事欠いて池のタニシ(?)や食用ガエルを捕まえたり、畑の作物を盗んだりし、最後には空襲警報が鳴る中、避難で空になった家を家探しして着物を奪って逃げ、それを食べ物にかえようとしたり、完全に犯罪まで犯してしまう。

 

彼らは結局親戚の厄介になっている不自由さに我慢が出来なくなって自分たちの命をも縮めてしまったのであり、「意地悪な親戚のおばさん」の振る舞いに我慢して小さくなって生活していたら少なくとも死なずに済んだかもしれなかったわけだ。

 

ふと思い立って「意地悪な親戚のおばさん」という言葉でググってみたら検索結果の上位がいくつも『火垂るの墓』のこのおばさんに関連した文章で笑ってしまったのだが、このおばさんは本当に「意地悪」だろうか。

 

考えてみればわかるけれども、少なくとも特別にひどい人ではないだろう。ちょっと物事をはっきり言いすぎる、口の悪い人ではあるけれども、居候させている子供たちが全然自分の言うことを聞かなかったらいろいろ言いたいこともあるだろうとは思う。自分が少年の立場だったらどうするかと考えてみると、たぶん我慢しただろうと思うし、当時生き残っている同じ立場の子どもたちはほとんどみな、そうしただろうと思う。

 

それが出来なかったのは少年がやはりプライドが高かったからで、これは原作者の野坂昭如の実体験が反映されているのだろうけど、こういう境遇の中で決然と4歳の妹を連れて家を出て行ってしまうということは誰にでもできることではないから、それを決行した少年への共感と憧憬を同世代の人々は感じたのではないかと思う。

 

母が生きていると思っているから「親戚のおばさん」もちょっとの辛抱だと思って我慢していたわけだけど、いつまで居座られるかわからないと思えば戦時下の厳しい状況の中で少しは役に立ってもらいたいと思っても不思議はないだろうし、「自分たちの持ってきた梅干し」「母親の着物と変えた米」というふうに権利ばかり主張されたら面白くはないだろう。

 

また近所の農家のおじさんにしてもお金を出している間はいろいろ親切にしてくれたりしてもお金がないから助けてほしいと言われたら掌を返したように「親戚の家に戻ったらどうだ」と冷たくあしらうのもまさに金の切れ目が縁の切れ目で、当然と言えば当然ということになる。

 

これらの大人たちは結局主人公たちに対して「世の中とは、世間とはこういうもの」ということを身を持って教えてくれる存在であり、海軍将校の子弟として不自由なく育ってきた子供たちにとっては初めて接する世間であったことは間違いない。頭を下げて居候させてもらい、状況が変わるまでとにかく生き延びるということは彼らにとって耐えられないことだったわけだ。

 

そして作物を盗んだ少年を徹底的に折檻して警察に突き出した農家のおじさんも、自分の畑を荒らされて怒るのは当たり前のことだし、警察に突き出すのも当たり前のことだが、説諭して解放すると言われて不満そうにしたら未成年者に対する暴力行為だと言われて急に引っ込んでしまう。

 

いつの状況でも兄と妹に対して優しいのはむしろ官の側であり、庶民は彼らに対して厳しく当たる。少なくとも庶民にとって当然だと思われることをしているにすぎないわけだ。このあたりのところはすごくリアリティがあるというか、たぶん宮崎駿ならこういう撮り方は絶対にしない。

 

悪い、厳しいのは一般に官の側であり、庶民の側には必ず太っ腹な優しいおばさんかおじさんがいて少年たちを保護し、後ろ盾になってくれる。そこに宮崎アニメの夢があり人気の秘密があるわけだけど、現実の社会ではこの兄と妹のような立場のような人間に対して優しいのはむしろ官の側で「世間は冷たい」というのが実際のリアルな現実だろう。

 

(その3)に続きます。

『火垂るの墓』を見た。(その1)この作品は、苦しんで見るべき作品だと思った。

火垂るの墓 完全保存版 [DVD]

 

 

2012年の9月になるが、高畑勲作品『火垂るの墓』を見た。

 

先ずはっきり書いておきたいのは、この映画は凄いと思う、ということ。一生に一本撮れたら幸せだと思えるような作品だと思うし、今まで見た(というか途中まで見てどの作品も最後まで見ることを放棄しているのだけど)高畑監督の作品の中で間違いなく一番いいと思う。

 

しかしこんなに見るのが苦しかった作品もここのところなかった。見終って思った第一の感想は、この映画はつまり、「苦しんで見るべき作品」なのだということだった。生きることは苦しみを生きることであり、死ぬことがそのことの救済になる。妹が死に、その幻影が防空壕の外で一人で遊んでいる。その有様はまるで天国を見るようで、まさに彼女は天国にいるのだろう。それを見ているとひとりでに涙が出てくる。それまでの見ることが辛ければ辛かっただけ、その哀しい救いのカタルシスは大きいのだろう。

 

見ることが辛いのは、どんどん兄と妹が「不幸」になっていくからだ。不幸になりそうなフラグがたち、それが確実に回収されていく。その確実性のやるせなさみたいなものに心をかきむしられてしまう。しかしみていると何で?と思うことがたくさんあるのもまた事実なのだ。

 

(その2)に続きます。

『ハウルの動く城』を見た。ソフィーの心の変化に応じて、物語が伸び縮みしているように思った。

ハウルの動く城 [DVD]

 

一言で言うと、普通にいいファンタジー映画だった、と思った。

 

Wikipediaをみると、原作とはかなり変えてあるところがあるらしいのだが、宮崎らしい仕上がりに成っているのではないか。

 

若いソフィーが魔法で急に年を取らされて老人の苦しみを知り、また逆に老人になることで若いときに気にしていたものに囚われなくなる様子など、私などにとってもよくわかる。年を取ることのプラスとマイナスの表現がうまくストーリーに乗っている。

 

ソフィーが劇中で年を取ったり若返ったり頻繁にすることが全然説明されていないが、ソフィーに関しては魔法を解くとか解かれるということが全然関係なくなっていってしまうのが面白い。『千と千尋の神隠し』までは割ときっちりしていたそういう「お約束」が『崖の上のポニョ』では全く消滅していて面食らったのだが、『ハウルの動く城』でそういう面では既に消え始めていたんだなと思う。

 

テーマは他にもいくつかある。たとえば「家族」。ハウルマルクル、それにカルシファー(火)だけの時にはそれぞれ役回りが決まっていたのが、ソフィーがやってきて家族の結束が始まり、それにもと荒地の魔女の老婆とサリマン先生の使い犬のヒンが加わり、ついには悪魔のカルシファーまでが家族になってしまうという展開。やはりそれは家族の中心にソフィーがいるからだ。

 

ソフィーって、物語によく出てくるお母さん、あるいは長女の役回りなんだけど、こういう存在というのはほっとする。原作ではソフィーも魔法の力を持っているみたいだけど、映画ではそれを曖昧にして、魔力というよりはむしろ愛の力で呪いを解いていくみたいな感じになっているのが宮崎監督の狙いなんじゃないかなと思った。

 

もう一つは善と悪、契約と自由、みたいな話で、ハウルの心の中に自由で優しいものを見出して心引かれていくソフィーの心に対して、傲慢で小心で気ままな魔法使いハウルが「守りたいもの」を得て「愛する人のために戦う」ように気持ちが変化していったり、子どものハウルが魔法使いになったところに実はソフィーが立ち会っていて、すべての鍵を握っていたのはソフィーであることがわかったり、ソフィーの心の変化に応じて物語が伸びたり縮んだりする感じがする。

 

すべては心のあり方次第、というのももう一つのメッセージなのかもしれない。

 

物語の大きな枠は原作に任せて、宮崎監督は自由に場面を作って行っているように思われる。原作ものの方が好きに作れるという面はあるんだろうなと思うけれども、メッセージ性の強さという点では原作から手がけた作品とは違う。まあ情念の込め方が違うし、見るほうもそのぶん楽に見られるということはある。良し悪しはいえないが、原作ものだけでは宮崎監督自身が物足りのではないかと思った。

 

宮崎駿が『風立ちぬ』で描こうとしたもの(2)

アニメージュ 2013年 08月号 [雑誌]

 

(その1)からの続きです。

 

こうした匂いを感じさせるのは、たとえば白洲正子がそうだった。彼女は旧華族家の跳ね返りでどうじたばたしても生きているという実感をつかめずに、親を驚かせる結婚をしたり、女性で初めて能舞台に立ったり、自分が本当に生き切るためにはどうしたらいいのか、悪戦苦闘を続けていた。それが小林秀雄ら文学者との出会いで生きる道を獲得して行くわけであるが、戦中の彼女が、隠棲していた鶴川の武相荘に人が訪ねて来る度に、「この人と会うのはこれで最後かもしれない」と思い、自然に和やかな雰囲気になった、ということを書いていて、特に菜穂子と二郎の間にあった思いは、常にそういうものだったのだろうと思った。

 

生きるということは、生きてるということは、まず「死なない」ということであって、でもそれは、「死ぬかもしれない」という紛れもない現実に裏付けられている。だからこそ、ただ生きるのでなく、よく生きようとする。それはソクラテスの思想であるけれども、その「よく」というのをどう解釈するかは、その民族性・国民性によって違うのだろうと思う。日本人の場合は、より美しく生きたい、と思った人が多かったのではないだろうか。

 

より正義を実現するために、より勇気を持って勇敢に、よりこの世を楽しんで、というさまざまな基準と同じように、「より美しく生きる」ということもまた「よりよく生きる」行き方のひとつだろう。そして、より勇敢に生きるという思いもそれを人に押し付ければ迷惑であるように、より美しく生きる、ということも押し付けるべきことではない。人は自分の生き方を自分で決めるべきであって、であるからそこに必然的に伴って来る苦さもまた、引き受けなければならない。

 

そしてそれは、当然傷つくことだろう。宮崎駿庵野秀明を二郎の声にした理由を、宮崎はアニメージュの対談で「現代で最も傷つく生き方をしているから」と説明していた。

 

私もそういう目でこの役を見ていたので、見終わってからネットで「二郎はロボットみたいで感情が感じられない」という批評があったことにびっくり仰天してしまった。

 

その認識の齟齬がどこから起こったのかについては岩崎夏海ツイッターで分析していたが、やはり「世の中にはいろいろな人間がいて、いろいろな生き方をしている」ということが分からない、受け入れられない人が増えている、ということが一番大きいんだろうと思う。

 

正直私などは、二郎以上に人間的な人はなかなかいないんじゃないかと思って見ていた。よくわからないけれども、感情の奴隷として生きているような人間が人間らしいと評価されるような時代に私たちは生きてるのかなとも思うし、ただそういう人が声高なだけで、多くの人は寡黙な中に、菜穂子への愛をもって、自分の作りたい美しい飛行機を作るためにただひたすらに邁進して行く二郎というキャラクターに人間らしさを感じることが出来る人の方が多いだろうとも思う。

 

小林よしのりは思想家だから(と言うと彼は否定すると思うが)、在りし日の日本人の美しさをベースにしてこの日本を立て直すべきだと主張するし、小林に反対する人たちは戦争の意図やさまざまなものと十把一絡げにして昔の日本人のあり方そのものを否定しようとする。宮崎はクリエイターだから自分が美しいと思うものをそのまま描きだし、そしてそれが大きな苦さの源になることもまた、引き受けようとするのだろう、と思う。

宮崎駿が『風立ちぬ』で描こうとしたもの(1)

ジ・アート・オブ 風立ちぬ (ジブリTHE ARTシリーズ)

風立ちぬ』についていろいろ書きたい、という感じがすごくあるのだが、しかしながら書く材料が不足している、という感じもある。また、まだ公開間もなく見ていない人が多い段階で書くべきでないということもかなりあるし、この意見は納得できないという多くの意見に対しても、はっきりと見解の相違みたいなこともあって、そうなるとその背景の立場の違いのようなものを書かなければ意味がなくなるから、そう軽々には書けない、ということもある。逆に言えばそれだけこの作品の射程が長いということで、語られるべきことがもともととても多いということなのだ。

 

かなり多くの部分は、現代の日本人、ここ数十年の日本人が見ないようにしてきたこと、知らないふりをしてきたことを、もう一度思い出した方がいいのではないか、本当は昔の日本人の方が、今のわれわれよりも美しかったんじゃないかということにあって、おそらくはその評価に対する戸惑いというものがあるのだろうと思う。つまりあの宮崎駿が、たとえば小林よしのりみたいなことを言っているという戸惑いなのだ。

 

もちろんこの作品で、宮崎は小林のように昔の日本人をストレートに称賛しているわけではない。しかし何も言わない、主張しない普通の人々の、そのあり方の美しさ、たたずまいの美しさ、心根の美しさを描いているのだから、思想的に言っていわゆる左翼の側に属する人々の、強力な心の支えのひとつだった宮崎を、どうとられていいのか分からなくなっている人は多いのではないかと思う。

 

しかし思い起こして見れば、日本の左翼というのはもともとある意味矛盾に満ちた存在で、自由平等民主は唱えても天皇は尊いものと考えるのはまったく珍しいことではなかった。宮崎本人が天皇制についてどう考えているのかは別にして、彼はそういう古いタイプの、新左翼出現以前のオールドリベラリストの系譜を引く表現者だと考えるべきなのだと思うし、彼が実はこれだけ多くの国民の支持を得ているということは、日本人が最も支持したい心情的な思想はオールドリベラリズムであったと考えるべきなのではないかと思う。

 

オールドリベラリズムは、思想的には洗練されていないし、何というか半分日本の土着の思想みたいなところがあって、68年の世代から徹底的に攻撃を受けて壊滅して行った、もう残滓のようなものだと思ってはいたけれども、でもやはり私はそれをとても好ましいと思う、そう言う思想なのだと思った。

 

私は長い間、宮崎駿戦後民主主義表現者だと思ってきていて、そういう意味で敢えて見て来なかったのだけど、一度見てしまうとその言説はともかく、作品内容はそんな甘いものではないということは理解できた。しかし今まであまりよくその本質は分からないできたのだけど、言わば戦前的な自由主義思想が彼のベースにあると考えるといろいろなことがとても了解できる気がする。

 

日本が豊かだ、というのはある意味虚飾であって、日本は貧しい国だという本質が、たぶんそんなに大きくは変わっていない。ただ彼が描くのは『火垂の墓』のような陰惨な貧しさではなく、ひもじくとも人に恵んでもらうことを拒否する、そういう誇り高い貧しさだった。その貧しさの中で生きていた人々は、生きていること自体が奇跡であり、恵みであり、いつ死ぬか分からないことがデフォルトの中で、その許された短い時間の中で、(作中でも生産的な時間は10年だとか、結核の菜穂子が私たちには時間がない、という場面がある)いかに懸命に、自分が最大限納得できるように生きるかというテーマが示される。その中で生きている人々は、間違いなく美しい。

 

(その2)に続きます。

宮崎駿監督『風立ちぬ』を見た。

風立ちぬ サウンドトラック

 

 

宮崎駿監督作品『風立ちぬ』を見た。

 

風立ちぬ』を見たのは、公開されて1週間ほどたった平日の朝9時からの回。まだ地元では夏休みになってなかったので、子どもたちもおらず、私が一番若いくらいの年齢構成の客層だった。

 

以下、そのときの感想。

 

これは、苦い映画だ。そして、いい映画だ。なぜならば、生きるということは苦いことだからだ。そして、その苦さを、宮崎駿という人はよく知っている。ジブリのアニメ映画ばかりを見ている人には、宮崎駿という人物が抱えている苦さというものは、あまり伝わっていない人もいるかもしれない。しかし、私は数年前にはじめて宮崎作品を見てから数週間でナウシカ以後の彼の全作品を見、彼の発言やインタビューもかなりたくさん読んで、この人は本当はすごく苦い人生観、日本観、自然観、生命観を持ちつつ、その中で懸命に、子どもたちにメッセージを伝え続けて来たということを強く感じていたから、たぶんおそらく、その苦さというものを最もストレートに表現すれば、きっとこういう映画になるのだろうと思っていた。

 

思っていたと言っても、宮崎の作品は、いつも思っていた以上だ。自然描写もそうだが、今回は込み合った大正時代の客車の車内や、突然発生した関東大震災の描写が、まずは非常に印象に残った。紅蓮の炎に包まれる街、本郷の大学は高台で潰れかけた煉瓦の建物から万巻の書物を運び出す様子、積み上げられた本に風向きが変わって火が燃え移ろうとする様子、それを慌てて消そうとしながら、その中で煙草を吸っている主人公と親友の本庄。アニメ的な誇張があるから本当にこんなにわっさわっさとした感じだったのかとか、こんなに街の様子が色鮮やかだったんだろうかとか、いろいろなことは思うのだが、モノクロでしか見たことがない失われた風景が、本当はこんなに豊かなものだったかもしれないというひとつの可能性のようなものを見られた気がした。

 

書きたい場面はたくさんあるのだが、関東大震災の次に印象に残ったのは飛行機製造会社に就職して数年後、派遣されてドイツに行ったときにドイツの進んだ様子。「日本は列強に20年遅れている」と何度も叫ぶ本庄。日本の良さを飛行機にも生かして行こうとする二郎。

 

軽井沢のホテルの場面もよい。いや、それこそがこの映画のもっとメインの場面の一つだと言えるのだが。ここのところ、あまり詳しく描写するのは避けるが、ここで出会った謎のドイツ人は、リヒャルト・ゾルゲを思わせた。また、直子と二郎が突然の驟雨に襲われ、ずぶぬれになりながら帰って来ると、あるところから先は地面が全く乾いている。その細かい描写がとても印象的だった。

 

印象的と言えば、もうひとつ印象的なのが二郎の設計場面。計算尺を用い、製図板に向かい、簡単な表を作成しながら次々と設計を続けて行く。今ならきっと、パソコン上であっという間に済んだ作業が気の遠くなるような地道な計算を積み重ねて飛行機を設計して行くその感じが、大変良かった。

 

二郎と直子の場面は、敢えて書かない方がいいだろうと思う。この時代の男たちは、みんなのべつ幕なしに煙草を吸っていたんだなと思う。設計に熱中しても、考え方をまとめようとしても、常に煙草を吸っている。そう、私が子どものころの大人は、みな煙草の匂いがした。この映画を評した文章を見ると、みないつも煙草を吸っている酷い映画だったという感想があって、まあこういう人は何を一体見ているんだろうと思うけれども、私が芝居をしている頃でさえ、難しい作業をしながら煙草をくわえて考え込んだり、部屋の中が煙で充満していたりするのは決して珍しいことではなかった。ほんの少し前には当たり前だったことが今では轟々たる非難の対象になる、というのも、ある意味人間の持つ悲しい偏狭性のなせるわざなんだなとも思う。

 

日本は負け、二郎の作った飛行機は、一機も戻って来なかった。すべて空に吸い込まれてしまった。この苦さは『紅の豚』に共通する部分もあるが、それが日本の話であるだけに、その苦さもまた際立つ。

 

上映時間は二時間余り、途中でトイレに行った人が一人だけいた。ラストに荒井由実の『ひこうき雲』がかかっても、誰も席を立つ人がいない。それはそうだろう、たぶん多くの人が、この曲を聴きに来たのだ。

 

宮崎駿は、この作品を見て泣いたという。庵野秀明によれば、号泣したそうだ。松任谷由実も「我慢しても我慢しても嗚咽が出てしまうほど感動した」そうだし、招待されて見に来た堀越二郎の子息とその奥さんもまた、松任谷の隣の席で泣いていたのだそうだ。私も、似たような現象に見舞われたが、それはやむを得ない仕儀であったということになる。

 

いい映画だった。大人の映画だったが。生きることの苦さを知っている大人に見てほしいし、苦くても生きるしかない人間というものの姿をリアルに描くということは、たとえファンタジー的な場面があろうと、たとえ実写でなくアニメーションであろうと、そういうことではないのだということが、この映画を見ればよくわかる。

 

細部をもっとじっくり見たい場面もいくつもあった。結局二回目を見に行ってはいないが、ディスク化されたらまた借りて見るかもしれない。