私のジブリ・ノート

私が初めてジブリ作品を見たのは2010年。最初の2週間で宮崎作品を全て見た。何かが爆発した

ナウシカの胸はなぜ大きいのか ー この世界を滅ぼさないために、古き文明を滅ぼす

風の谷のナウシカ 2 (アニメージュコミックスワイド判)

 

ネットでいろいろ読んでいたとき、「ナウシカの胸が大きいのはなぜか」というよう話題があって、面白いと思った。

 

私はナウシカにしろ『ラピュタ』のシータにしろ、胸が大きいのは性別と年齢をあらわす記号くらいに思っていたのだけど(そのとらえ方もよく考えてみるとどこか変だが)、そういうことではなく、彼女たちが持つ母性のようなもの、そういう働きをあらわしているらしいということはいわれてみてはっとした。

 

ナウシカは明らかに「救世主」として描かれているわけだが、その優しさと強さ、「優しく猛々しい風」は明らかに「母」としての性質を持っている。

 

しかし、マンガ版の7巻で傷つき休息をとるときに入浴する場面が出てくるが、露わにされる胸は小さい。大きくは描けなかった、と宮崎がインタビューで答えている。

 

ナウシカの聖性と、その大きな胸の両立はやはり戦う場面、先頭に立つ場面でこそ生きて来るので、入浴シーンは彼女が癒されなければならない場面、母でなく娘としてあれる場面であることもあって、結局大きくは描けなかったのだろう。言わば宮崎自身の欲望が肝心な(?)ところで抑制されてしまうというところがなんだかいい。

 

「聖少女」と「母」との往復。観世音菩薩とかマリア像とかはやはり肉感的には描けないだろう。

 

今のエロはそれをやたらに踏み越えてしまっているが、してはならないことをしたからと言って、自由になるわけではない。禁忌を乗り越えたら何か新しさがあるという安易な発想では、人は自由にはならない。

 

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風の谷のナウシカ(コミック版)』の最後に墓を滅ぼし、未来に生まれるはずの「新」人類、ないし「神」人類の卵を滅ぼす場面、ここには強く反発を覚えたということを先日書いた。

 

しかしよく考えてみるとあれは『天空の城ラピュタ』でシータとパズーが「バルス」という滅びの呪文を唱えて古い文明であるラピュタを崩壊させ、自分たちの死と引き換えにムスカの野望をくじこうとしたことと同じなのだ。

 

書き方が全然違うので彼が意図していたことになかなか気がつかなかったのだが、古代の高度な文明の遺産で自分たちが生きて行こうという「よこしまな考え」を拒み、自分たちが作ってきた「不完全だけどいのちのあふれる世界」を生きよう、そのために滅びた古き文明をもう一度滅ぼそう、というテーマは全く同じで、そういう意味で『ラピュタ』は『風の谷のナウシカ(コミック版)』のリメイクであるという解釈もできると思った。

 

シータは少女性が強調されているけれども、胸が大きいこととか海賊たちの食事をつくる場面で母親的に振る舞っていく場面など、確かに海賊の首領たる「ママ」と同様の要素をみせている。また、ムスカと対決する場面で突然王女のように凛と振舞うところがあるが、あれは王女というよりもナウシカなのだと考えれば、シータの性格に対しても見方が広がる。

 

宮崎はまず架空世界で『ナウシカ』を描き、『ラピュタ』で現実世界――19世紀産業革命期のイギリスのような世界――に降り立ち、『もののけ姫』では日本中世にまで近づいてきた。何というか、描きたいものを描くためには、浮世離れしたところで自己を確立し、それから現実世界に降り立つ、というプロセスをへているように思った。

 

ふと、こういうことを書いていると思い浮かぶことがある。

 

これは自分のことなのだが、ナウシカの母性ということを考えていると、自分には信頼できるものとしての母というイメージ、あるいは観念が欠けているな、と思う。同じように、信頼できるものとしての父というイメージ、あるいは観念も。

 

そこに多分、自分の欠けているところがあって、それを埋めるために何か創作によって作りだしたい、という根源的なものがあるのかもしれないと思った。

 

現実の両親を見ていると、といっても父はもう亡くなったが、何というか少年少女のように見えて仕方がない部分がある。

 

それはともかく、ナウシカは母なのだ。母であるからこそ、自らの子であるようなこの世界をどうしたら生かせるかを考え、それを滅ぼす災いにつながる古き文明の種子を滅ぼした。

 

それは、この世界に対する限りない愛であり、この世界で生きることそのものに、たの世界を滅ぼしたという原罪がつきまとっているということを宮崎は言っているように思った。

 

ラピュタも、文明は滅びたが、巨大な飛行石の力で、森や木や蝶やロボットたちは天空に浮いたまま生き続ける。

 

恐ろしい可能性とムスカの野望とがなくなった今、ラピュタは私たちの世界の一部になったのだろう。

 

(この記事は2010.10.20.に書いたものに加筆・修正したものです)

鈴木敏夫『ジブリの哲学』を読んだ。頭の中に1000の作品を持つこと。

ジブリの哲学――変わるものと変わらないもの

 

この本を読んだのは2011年のこと。文化の日だった。

 

ユニバーサルミュージック社長の石坂敬一鈴木敏夫との対談で、石坂は「音楽産業に従事する人はレパートリーとアーチストに精通していないといけない。頭の中に1000曲持っていろ」ということを言っていた。

 

これはすごく感心した。あたりまえと言えば当たり前のことだけど。

 

佐村河内守氏の問題でいろいろと言われていたとき、新垣隆氏は佐村河内氏のリクエストに応える形で、自分の持っているレパートリーの中から知っているものを駆使してそういう曲を書いた、というようなことを言っていた。クラシックの作曲家というのはそういうものかと驚いたのだけど、それはクラシックだけでなく、ポピュラーミュージックに従事する人でも同じことなのだ。

 

それはほかのジャンルでも同じことだろう。

 

アニメを作る人はアニメーションが1000本頭の中になければいけない。絵を描く人は、頭の中に1000枚の絵がなければならないということだろうし、小説を書く人は頭の中に1000本の小説がなければならないということなんだろう。

 

最近書けないなあ、と思ってどうしたらいいのか、とにかく書こうと思って書いてもあまりよいのが書けない、という状態が続いていたのだが、つまりはレパートリーが少ないのだと言われてみればなるほどと腑に落ちる。一体今までどんな小説を読んできたのか、ちゃんと1000冊上がるかどうか、並べてみようと思ったし、まずはとにかく読むということを再開しないといけないなと思った。

 

本当に自分の納得のいくアイデアがちゃんと出て来るまで、まずは自分の頭の中を立て直さないといけないと思った。

 

石坂は、日本の歌手がいけないのは、外国ものとかライバルの作品をきかないで、似たような歌しか作れなくなることだ、という指摘をしていて、全くその通りだなと思う。アイデア出しは常にやっていかないといけないが、それだけでなくとにかくまず読むこと、読むことによってインスパイヤされることから始まるという指摘は、その通りだと思った。

 

GNPやGDPに対してGNCという概念が『Foreign Policy』に出ていたという話も面白かった。

 

Gross National Cool。国民総カッコよさ。実にしびれる。

 

先進国はかっこよくなくちゃいけない、というのは全くその通りだなと思った。

 

「Foreign Policy」の中で、そのGNCポテンシャリティーのNo.1は日本だったという。

 

それはイチローのデビューの年の話だそうで、今はどうかなと思うけど、そういう考え方って相変わらずビビッドだと言えるんじゃないかなと思った。

マンガ版『風の谷のナウシカ』を読んだ。(2)ナウシカは、風の谷に帰らない。

 

風の谷のナウシカ 豪華装幀本(下巻)

 

(その1)からの続きです。

 

ナウシカはなぜ、「新しい穏やかで優れた人類たちの卵」を虐殺したのか。

 

単純に考えれば、そんなことは許せない、としか思えない。

 

しかし、ここではそこに何が表現されているかということを見るべきなんだろうと思う。

 

私は、宮崎自身がナウシカのようなこういう突き抜けた方向性をこれ以上追求するのをやめて、『ラピュタ』以降の子供向けのアニメに舞い降りて行ったことに、それを説くヒントがあるように思った。

 

それはつまり、アートの「清浄な世界」ではなくビジネスの「苦界」に身を沈めて、そこでメッセージを発信して行くことを選んだ、その決意の表れがこういう表現になったのではないか、と私は思った。

 

人がとやかく言うことではないが、相当苦しんだのだろう。そうでなければこんな表現はできないと思う。それが宮崎の自由であり、運命であり、業であり、選択であったのだと思う。

 

もう一つの読み方としては、同じ清浄な世界でも森の人の世界の奥、皇弟が成仏した空間は肯定的にとらえられ、旧世界の音楽と技芸の秘密の場所は否定的にとらえられているのは、前者が多神教的・自然崇拝的な場所であり、後者が一神教的な「復活の予定」に彩られた空間であるから、と考えることもできるなと思う。

 

宮崎の世界はいうまでもなく圧倒的に前者であって、後者の文明こそが人類を滅びに導くものだという確信が、もちろん明示はされないけれども、あるように思う。

 

それにしても、書き切っているなあと思う。やはり読んでみて、自分の中でそういう反発があるということは、自分は多神教的世界観だと思っていたけれども、一神教的な世界へのあこがれも確かにあるんだなと思った。反発というものは、ある種の新しい発見の序章であって、創造の始まりでもあるのだなと思う。

 

ラピュタ』でも『もののけ姫』でも、パズーもアシタカも故郷には「帰らない」。『ナウシカ』はアニメでは風の谷に帰るので、ナウシカの段階では違ったのかなと思ったのだが、マンガを読むとやはりナウシカも「帰らない」んだなあと思った。

 

唐突だがここで、「耳をすませば」の劇中歌、「カントリーロード」を思い出す。

 

どんなくじけそうなときだって 決して涙を見せないで

心なしか歩調が早くなって行く 思い出消すため

 

カントリーロード 明日はいつものぼくさ

帰りたい 帰れない さよなら カントリーロード

 

ナウシカも、宮崎も、そしてパズーも、アシタカも、キキも、ポルコも、ソフィーも、ポニョも、帰らない。行きっぱなしであり、明日へただ向かって行く。そういう意味では、「風立ちぬ」まで宮崎はずっとそうだったのだ。(ある種の「異界」が描かれた『となりのトトロ』と「千と千尋の神隠し」では「この世」に帰っては来るが)

 

蛇足ながら、マンガ版「ナウシカ」を読みながら、『エヴァンゲリオン』のことをいろいろ思い出していた。

 

誰か指摘していることかもしれないが、「エヴァ」というのは「ナウシカ」への裏返しのオマージュというか、血を吐くようなパロディでありアンチテーゼなんだなと思った。出てくるアイテムがいろいろ似過ぎている。使徒。エヴァ巨神兵人類補完計画、滅びるべき人類が生き残ること、など。

 

これは、80年代から90年代への傷だらけの輪廻転生なのかもしれない。切っても切れない師弟関係なのではないかと思う。

 

庵野監督が『ナウシカ2』を撮ると言う話が、浮かんでは雲散霧消しているけれども、そういうこともあってもいいかもしれないと、最近は思っている。

マンガ版「風の谷のナウシカ」を読んだ。(1)7巻の展開に激しい抵抗を感じた。

風の谷のナウシカ 7

 

 

2010年の10月、アニメ版の『風の谷のナウシカ』を観たあと、マンガ版の『ナウシカ』7巻を一度に買った。

 

夜、カフェのレストランで少し読み、家に帰って家事的なことをかたづけながら3巻まで読んだ。起きてから、特急に乗って帰郷するあいだに7巻の途中まで読み、自室についてから寝る前の時間に最後まで読み切った。ほぼ一昼夜で読破したことになる。

 

B5判の大きさなので読みやすいだろうと思ったら飛んでもない、もともとの版型がもっと大きかったのだろうか、絵がかなり詰まっていて、予想外に読みにくかった。慣れて来ると気にならなくなっては来たが。

 

ナウシカ』はすごい。アニメもすごかったが、その世界を描き切ったマンガもかなり凄かった。宮崎駿というのはもともとこういう世界を持った人なのかと瞠目させられる。

 

7巻の途中まではずっと「表現」がすごいなあとか思っていた(4巻のチククがいた神聖な場所での骨たちのせりふ、「永く待ったかいがありましたね」「ええ…風が来ました」「やさしく猛々しい風が…」とか「森の人」の奥地で皇弟が成仏するところとか)のだが、7巻の途中からかなり判断が揺さぶられることになった。

 

古い文明が保存された場所でトルメキアの王子たちが音楽に夢中になっている地上楽園みたいな場所は、『ナルニア』の朝びらき丸が東の海の上で見つけた島々のように神聖で清浄な場所だと思った。

 

宮崎駿という人は「神聖さ」というものがどんなものだか知っているのだなと思う。しかし、最後にそれらを全否定する方向に話が行って、何をどう考えればいいのかわからなくなったところがあった。

 

ただ、森の人との会話でもそうだが、やはりナウシカは苦界で生きる、という決意のようなものをそこで示しているのだ。彼女は救世主であり、衆生救済を願とした観音菩薩みたいな感じになっている。

 

そこには、予定調和的な過去の人類による予定された救済を激しく拒否する姿勢がある。

 

「新しい穏やかで優れた人類の卵たち」を、ナウシカは虐殺する。あの場面には、賛否両論があるのではないかと思った。

 

というか私は、そこは許せないと思うくらいの抵抗を感じた。

 

(その2)に続きます。

 

『猫の恩返し』を見た。実は好きな作品なのだ。

猫の恩返し / ギブリーズ episode2 [DVD]

 

2010年、スタジオジブリ作品を集中的に見ていた時期に、森田宏幸監督作品『猫の恩返し』を見た。

 

この作品はスタジオジブリの作品としてはそんなに評価も高くないし、また動員もそれほどではないのだけど、私は割と好きな作品だ。私はもともと、こういう理屈抜きののんびりした映画が好きなんだなあと思う。

 

この作品は、『耳をすませば』と同じ柊あおい原作のマンガが元になっていて、『耳をすませば』の主人公、月島雫が描いた物語、という体裁をとっている。『耳すま』のスピンオフと言うことになる。

 

耳すま』は近藤喜文監督作品だったが、脚本・絵コンテは宮崎駿が描いている。この『猫の恩返し』は宮崎のリクエストによって柊が書き下ろした『バロン 猫の男爵』が原作になっているのだが、宮崎自身はスタッフに名を連ねていない。

 

このときは高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』と二つ借りてきてみたのだけど、『猫の恩返し』の方が気に入った。

 

主人公の春が猫になるところがかわいいし、「猫になってもいいかなあ」と思いかけたり、猫のバロンを好きになったりするのもなんだか胸キュンでよかった。

 

少女のたわいない物語妄想と言ってしまえばそれまでのような気もするが、ワンシーンワンシーンが気がきいてる。

 

主人公のハルがふわふわした性格なのが個人的には好きだった。

 

メイキングの画像が特典についていて、丹波哲郎がアフレコで「勝負だにゃあ!」などと叫んでいるのを見て大ウケした。

 

猫の恩返し』はなんかすっきりした作品だし、楽しんでつくっている感じがして、好きだなと思う。こういう肩の力が抜けた作品は見ていていい。主人公が簡単に猫になってしまったりするところが可笑しくてしょうがない。

 

風になる

主題歌がつじあやのの『風になる』なのだが、これもまたすごく好きな曲だ。車に乗っているとき、カーステレオからこの曲が流れると何とものんびりした気分になる。

 

この作品は、原作も読んだ。

 

バロン―猫の男爵 (Animage comics special)

 

はあはあ、こういう絵の人か、と思った。これを読むと、『猫の恩返し』はかなり原作に忠実につくられているということがわかる。細かいところや、世界設定に違いはあるけど、絵柄は違うのに不思議なくらい雰囲気が同じだ。それは、主人公以外の猫たちのキャラクターがほぼ踏襲されているからだろう。読んでいてほとんど違和感がないのがいいなと思った。

 

逆に言えば、『魔女の宅急便』などに比べると、作家性が弱いということになるのかもしれない。森田監督は『かぐや姫の物語』でも原画で参加しているようだが、自分の名を冠した作品を作るということにあまりこだわりのない人なのかもしれないと思った。そういうところからこののんびりさが生まれてきているのかもしれない。

 

実はそういうことはそれはそれで貴重なことなのかもしれないな、と思った。

私がスタジオジブリの作品を観た方がいいと思ったきっかけ

崖の上のポニョ [DVD]

 

2008年のことになるけど、『崖の上のポニョ』が公開された後、NHKの『プロフェッショナル』で宮崎駿が取り上げられていた。それまで私はスタジオジブリの映画は一度も見てなかったのだけど、宮崎駿という人に興味が出てきていて、本放送は見たのに再放送もまた見てしまった。

 

本放送で見た時は人間としての面白さに気が引かれてしまったのだけど、再放送で見た時はクリエーターとしての彼の鬼気迫る有様がびんびん入ってきた。

 

本放送はごはんを食べながら母と見ていたのだけど、再放送は一人で考えながらじっくり見ていたので、こういうものも見る環境が大事なんだなと思った。

 

みていて思ったのは、宮崎は、圧倒的な霊媒体質だということだ。

 

リエーターというのは、というかどんな人間でも多少はあるのだけど、特にそういう部分がある。普通はそれを働かせないようにしているのだけれども、友人が亡くなったときとか制作に没頭しているときのような「日常性の破れ」の局面では、宮崎の行動はそういう何か「降りてくるもの」に突き動かされている。

 

ストーリーは決まっているのに、「場面」が決まらない。その「場面」が降りてくるまで、最後まで粘る宮崎の様子は鬼気迫る、という言葉がそのまま当てはまる。

 

そしてその間に彼がした経験は、ものすごく濃密なのもとてもよく伝わってきて心の底からすごいと思った。

 

そんなことがあって、そろそろ私も、彼の作品を見てもいい時期になったんじゃないかと思ったのだった。実際には、『もののけ姫』で初めて彼の作品を見るのは、この2年後になったのだけど。

『火垂るの墓』を見た。(その4)『4歳と14歳で、生きようと思った。』どんな時代も、子どもたちは生きて行くのが大変なのだ。

火垂るの墓 完全保存版 [DVD]

 

(その3)からの続きです。

 

少年が独りよがりで妹を死なせ、自分も死んでしまったこと。この兄妹は不幸な恋人たちのようであったこと。そしてこの出来事は、現代にもつながる出来事であること。

 

ここに来て初めて、彼らは譲れないものがあった、逆に言えば独りよがりであったからこそ美しいのであり、悲しいのであるということが分かる。

 

この映画は大きく言えば反戦映画に分類されるかもしれないけど、そんな単純なものではないと思う。

 

どんな時代も、子どもたちは生きていくのが大変なのだ。

 

「4歳と14歳で、生きようと思った。」というキャッチコピーは、本来的な子どもたちの生きにくさというものをうまく表していると思う。戦争がなければ彼らは幸せだったかもしれないが、彼らの父親は海軍軍人であり、まさに戦争を前提として彼らは生活が成り立っているわけだから、そこはパラドックスに陥ってしまう。

 

そして確かに戦争というものはないにこしたことはないけれども、なくなることを期待するのは現実には難しいものだし、たとえ戦争が無くなったって、すさまじい自然災害や原発事故のような事故や人災を含めれば、「不幸」が人間の社会からなくなることはないだろう。

 

その中で人はどう生きればいいのかということを考えると、不幸の真っただ中に突っ込んで行ってもいいから自由に生きろというのはどうかと思うし、そういう選択を迫られないで済んでいる自分たちの「幸運」を感じたり、あるいは「不幸」でない自分たちの幸福を感謝したりすればいいのかという話で済ませるだけでもそんなに面白くはなかろう。

 

答えはないけれども、自分の生き方、自分の人生というものについてどう考えるか、というところに話を持っていかなければあんまり意味がないだろうし、あるいは生きることが困難になった時に生きる力を引き出すバネになったりするようでなければ、この作品の持つ強烈なインパクトが成仏しないように思う。

 

いやまあそんなことを考えずにただこの作品の美しさ哀しさを味わえばいいという考え方もなくはないが。

書き終えてみると、改めて放心してしまう。凄い作品であったことだけは間違いない。