『もののけ姫』再考:(その1)正当に評価されにくい宮崎作品
【『もののけ姫』再考:(その1)正当に評価されにくい宮崎作品 】
『もののけ姫』はジブリ映画で私が最初に見たものなのだけど、最初だけによくわからなくて、イヤにイメージの像の結びにくい複雑な映画だなと思った覚えがある。そういえば借りたDVDが途中で画像がおかしくなる個所があったし、見たのも大画面のテレビではなくほとんどPCで見たので、もう一度見直した方がいいかもしれないと思った。もちろん印象に残った場面はたくさんあったが、内容を読みこめたかと言えばほとんど読みこめてなかったなとこのインタビューを読みながら思った。わかる、とか感じられる、ということに関しては『千と千尋の神隠し』の方が上だったので、『千と千尋』は何度も見なおしてほとんどの場面は覚えてしまったくらいなのだけど、『もののけ姫』は太古の森のように、記憶が錯綜している。
だいたいこの映画は、繰り返して見るには重すぎる部分があって、あまり直視するのを避けていたようなところがあったのだけど、むしろ本当に宮崎駿が行くところまで行ってしまったのはこの『もののけ姫』だったのだなとインタビューを読みながら思った。それはその前の時期に公開され、同じ時期にブームの絶頂を迎えた庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』が実に行くところまで行ってしまった映画であったのとシンクロしているように思われる。
『エヴァンゲリオン』はテレビ版の驚きの結末をはじめ、劇場公開版や新劇場版など本人もまたあらたな制作を続けているけれども、その異様に突き詰めたストーリーのその先の破綻からさまざまなものを生みだす母胎になった。『もののけ姫』はそのような語られ方はしていないけれども、これは実はものすごいものを生み出そうとしているのではないかと思う。というより、この映画はまだ正当に語られていないのではないかとさえ思った。
正当に語られていないと言えば、おそらくは宮崎監督の多くの作品がそうなのかもしれない。『千と千尋』はずいぶん多くの言説があって私もいろいろな感じたことを書いていたりするけれども、たぶんこの映画は批評が書きやすい映画なのだ。しかし彼の作品はそんなサービスに満ちたものばかりではなく、もう理解を拒絶しているようなものがあったりする。
たとえば、2004年に公開された『ハウルの動く城』なども本当はかなり読まなければいけないところがあるのではないかという気がする。考えてみれば2001年の同時多発テロの後の最初の宮崎監督作品が、単純なラブロマンスであるはずはないのであって、何を言おうとしているのかまだ本当には読み取れてないとは思うのだけど、ハウルの評価について宮崎が怒っているというのを読むと、みんな読めてないんだろうなあと思う。
(その2)に続きます。