『火垂るの墓』を見た。(その3)「不幸な恋人たち」のような少年と妹。
(その2)からの続きです。
そういうわけで、私はこの主人公の少年に対して、自由であろうとして不幸フラグを次々と立て、それを次々に実現化して行ってしまう何ともやりきれない独りよがりの少年だと思わずにはいられなかったのだけど、それは周りと軋轢を起こしがちだった自分の少年時代とも重なったからだ。私は子供のころ早く大人になりたいと思っていたし、それは子どもというものが本当に不自由だと思っていたからだ。
しかし、ここで自由を求めて軛を断ってしまったら必ず不幸になる、という予感があり、大人になるまでは、と思って耐え忍んでいるという部分があった。だから私は大人になってから、本当に自分の力で生きることの幸せをかみしめたし、むしろそれだけで満足してしまうようなところもあったりした。
独りよがりだというのは妹に対する接し方にも表れていて、少年の妹への接しかたにはなんというかある意味恋人に接するような執着の仕方を感じたのだけど、それを妹への愛と言わずに執着という感じがしてしまうのは、この二人の関係が周りの人を幸せにしない感じがすごくしたからだ。
彼らが本当に楽しそうなとき、たとえばオルガンを弾いて「こいのぼり」を歌ったり、海辺ではしゃいだりしているとき、周りの人たちは彼らを見て楽しそうな顔はしない。むしろ「親戚の意地悪なおばさん」は腹を立てるし、海辺の親子連れも「何あれ?」という顔で見ている。彼らは仲良くすればするほど周りに疎まれる不幸な恋人たちのようなのだ。
こういう感じ、前にどこかで見たなあと思って思い出したのは『シド・アンド・ナンシー』だ。
セックス・ピストルズのシド・ビシャスとその恋人、ナンシーの破滅的な恋愛を描いたこの作品は、ジャンキーの彼らがお互いにのめり込めばのめり込むほど不幸になっていく。雨の中でナンシーが母親にSOSの電話をかけるシーンは、『火垂るの墓』で、もうどうにもならなくなって医者の診察を受け、滋養をつけろと突き放されて「滋養なんて、どこにあるんですか!」と叫ぶシーンと重なる。できないからできないのに、できないことをやれと言われ、絶望するしかない。
この映画で一番悲しいけれども一番救いのある場面が妹・節子が兄にどんなにかわいがられても決して言わなかった一言、「おおきに」と言って息を引き取ってから、幻想の中で防空壕の前で一人で遊んでいる場面だとしたら、一番エロティシズムにあふれている場面は死んでしまった妹を柳行李の中にいれ、人形や大事にしていたものたちと一緒にして兄自らが一人で野辺で火をつけて燃やし、火葬にする場面だと思う。
まさにあの場面は愛――ここはこういうしかない――と死というもの、エロスとはタナトスのことなのだと納得せざるを得ない場面で、ここですべてが実質的には終わってしまう。
このあと神戸の駅で少年が行き倒れるのはもはや彼にとっての救いは死しかないからであり、まさに大団円が霊魂となった彼らが丘の上から「現代の繁栄する都市」を見下ろす場面で終わる。そこで初めて、見る者たちにこういう出来事が現代とつながっている時代に起こっていることを自覚させて物語は終わるのだ。
(その4)に続きます。